楽譜のご紹介
この曲は1939年のリリースになります。作詞:宮本旅人 作曲:鈴木哲夫、歌はもちろん、ディック・ミネさんでした。徐々に戦時色が強くなって、このような股旅物がたくさん作られる時代だったようです。
当然、ディック・ミネさんは、名前からしてアウトです。時代が進む中で、その活動を日本国外へと向けたそうで、上海あたりで活動していたということです。
そもそも、ディック・ミネさんは旧制高校で校長を務めあげた厳格な父親を持つ一家に生まれ、いわゆるおぼっちゃまだったわけでした。
30年以上前、テレビを見ていたら、ディック・ミネさんがある人と対談をしていました。相手はどんな方だったか記憶にはございませんが、あんなに立派なお父様にして、この放蕩息子が、なぜ育つのかと吐き捨てるように言っていたのを思い出します。返しはやや無視するような感じで、インテリにはわかりゃしませんよ、みたいなことを言っていたと記憶しています。
まあ、4回も結婚していたら、普通のひとなら、破廉恥極まりないわけでして、当時ならなおさらのことです。今の常識でしたら、離婚してシングルマザーになるなんてことは、普通にあることですが、それはバブル以降に激増した社会現象で、日本社会ではまずありえないことだったわけです。
しかしその姿は、晩年のことであり、往時のことはもう知る人がいません。大体が、1934年(昭和9年)のデビューですから。当時、26歳なので、相当遅いデビューです。逓信省貯金局に就職して、勤めていたわけですが、当時のジャズやタンゴ音楽などが時代を席巻して、音楽好きのミネさんを魅了したのでしょう。ダンスホールのバンドメンバーなどをしているときに、淡谷のり子さんがプロになることを勧めたのだそうです。
その後、5年がたったところで、出たのがこの曲です。戦後昭和20年代後半の生まれの私の世代でも、この曲は何度も聞く機会があった私のおやじ世代の懐メロでした。では、楽譜をちらっとご覧ください。
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