楽譜のご紹介
1969年の発表作だそうです。時代は安保闘争・学園紛争の激しい時だったように思います。近くの大学の構内を、高校への近道にしていた私は、何度か投石や角材を持った一団が走り寄るのを避けるためにちょっとにやにやしながら(鬼ごっこの延長みたいに)、全力疾走をしていたのを思い出します。機動隊が放った催涙ガスもたびたび浴びました。
その一方で、このようなムード歌謡が氾濫していた不思議な感じの忘れがたい時代でした。同年のヒットでは、森進一の港町ブルースなどがあります。そもそも、こんな歌や曲がはやるような社会は矛盾があっても、病んでいるのだろうかと不思議でした。誰のために社会転覆(革命)をしようとしているのか、まったくその意図するところが不明で、自分は頭が悪いんじゃないかと思ったぐらいです。どの書店にも並んでいたマルクスの『資本論』をついに手にすることはありませんでした。そんな、こんなで時代は流れていきました。まさに、当時、『長崎は今日も雨だった』ように、それでも時代はそっちではない方向へ動いていたのです。いつものように、楽譜をチラッと、・・・。
楽譜はトランペット、トロンボーン、アルトサックス、フルートの順に並んでいます。楽譜をクリックすると販売サイトに飛びます。
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販売サイトはこちらです。Piascoreという楽譜専門販売サイトになります。楽譜の見本はトランペット用ですが、アルトサックス、フルート、トロンボーン用もございます。楽譜をクリックすると販売サイトに飛びます。
演奏例
曲の由来など
「長崎は今日も雨だった」(ながさきはきょうもあめだった)は、1969年(昭和44年)2月1日に発売された内山田洋とクール・ファイブのメジャーデビュー曲にして、最大のヒット曲。グループ脱退後、ソロ活動中の前川清の代表曲でもあります。永田貴子(ながた たかし、吉田孝穂の筆名)作詞、彩木雅夫作曲、森岡賢一郎編曲。
内山田洋とクール・ファイブは長崎市内のグランドキャバレー『銀馬車』の専属バンドで、ラテンやジャズなど幅広いレパートリーを有していました。一方、競合店『十二番館』の専属バンドは中井昭・高橋勝とコロラティーノで、「思案橋ブルース」で1年早く世に出ます。
1968年、佐世保のナイトクラブ歌手として頭角を現わした前川清をリードボーカルに迎え、チャーリー石黒の推薦で日本ビクターのプロモーションで売り出す計画が始動しました。
自主制作盤「涙こがした恋」に続くメジャーデビュー曲には、前川と同じ佐世保でギター流しをしていた尾形義康の持ち歌で、地元民放局や有線放送でヒット中だった「西海ブルース」が当初予定されていましたが、プレス直前に尾形が翻意し破談になったため、『銀馬車』の音楽監督だった吉田が自ら急造した詞を、当時北海道放送でディレクターを務めていた彩木に手渡して「長崎は今日も雨だった」が完成しました。
お蔵入りした幻のデビュー曲「西海ブルース」は、内山田洋とクール・ファイブが大御所に成長した1977年、歌詞を吉田が補作した上で改めて吹き込まれています。
発売約4ヶ月後にオリコンBEST10入り。森進一の「港町ブルース」(年間第2位)や、森山良子の「禁じられた恋」(年間第6位)に阻まれて2位止まりとなりますが、年間売上第8位のロングセラーになりました。
同年11月に発売されたアルバム『長崎は今日も雨だった』も年間30万枚を超える大ヒットとなりますが、最高位は2位でした。
累計売上は約150万枚に達するミリオンセラーになりました。
この曲のヒットで同年の第11回日本レコード大賞新人賞を受賞、「第20回NHK紅白歌合戦」にも初出場を果たし、クール・ファイブは一躍全国区に名乗りを上げました。
紅白では他にも、前川のソロとして2000年の「第51回NHK紅白歌合戦」と2006年の「第57回NHK紅白歌合戦」でも歌唱されている。2006年・第57回は前川のソロとしての出場ではあるものの、その年亡くなった内山田への追悼を込め、クール・ファイブのオリジナルメンバーが20年振りに揃い一夜限り(当初)の再結成を果たし、コーラスを務めました。当初は一夜限りの予定だったが、以降も前川清&クール・ファイブ名義で事実上再結成され、グループ活動を再開しました。