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トランペットで昭和歌謡シリーズ 西郷輝彦『星のフラメンコ』

 
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楽譜のご紹介

1966年発表の曲です。この曲を聴くたびに、同級生の寂しそうにいつも窓から外を見ていた少年のことを思い出します。ぐれるには度胸がなく、かといって、一人ぼっちは寂しいけれど、という本質的にやさしい子で、いつもこの歌を口ずさんでいました。
いつものように、こちらも著作権がありますので、楽譜は雰囲気だけの紹介になります。

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ちゃんと前奏のところも再現してあります。
販売サイトはこちらになります。Piascoreという楽譜専門販売サイトになります。

演奏例


星のフラメンコ    西郷輝彦 投稿者 showakayo

曲の由来など

1966年発表の大ヒット曲です。作曲は浜口庫之助さんです。

歌っていたのは、西郷 輝彦。
西郷 輝彦(さいごう てるひこ、1947年2月5日 – )は、日本の歌手、俳優、タレント。本名、今川 盛揮。
鹿児島県鹿児島郡谷山町(のち谷山市、現:鹿児島市)出身。身長176cm、体重66kg、血液型はA型。

歌手としては、橋幸夫・舟木一夫と共に「御三家」と呼ばれた(徳川御三家になぞらえて命名された)。芸名は明治維新の三傑の一人西郷隆盛にちなむ。

幼少の頃から芸事に傾倒し、小学生時代は剣舞や絵画を習ったり、近所の子供を集めては自身で作った紙芝居を披露したり、地元の慈眼寺公園でチャンバラごっこに明け暮れる少年だということです。

中学に入ると主としてスポーツに力を入れ、野球、テニス、バレーなど、あらゆるスポーツをそつなくこなす少年でした。背が高かったこともあり、他のクラブから試合への参加を頼まれることもあったとのことです。

またジャズが好きだった兄の影響で音楽にも傾倒し、将来は歌手になりたいとの夢を抱いていた一方、石原裕次郎、小林旭などダイヤモンドラインと言われた日活映画に憧れ映画俳優になりたいとの夢もあり、当時あった映画会社5社のニューフェイスに応募したが、結果は落選。

1962年に鹿児島商業高校中退後、鹿児島からヒッチハイクで大阪に行きます。アルバイトサロン(略してアルサロ)でボーイをしながら、かねてから下見をしていた有名なジャズ喫茶のオーディションを受けるも落選し、途方に暮れていたところを、審査員の口利きでバンドボーイとなります。

その後京都、名古屋などをぐるぐるまわりながら、バンド活動をしていたところを龍美プロに誘われ入社。

1964年2月、クラウンレコードより「君だけを」でデビュー。同曲は60万枚を売り上げました。「十七才のこの胸に」もヒットし、両曲でその年の第6回日本レコード大賞新人賞を獲得。同年「十七才のこの胸に」で映画デビュー。しかし事務所が解散し、東京第一プロダクション(現 第一プロ)へ移籍するも同社を退社した相澤秀禎マネージャー(業務成績不振及び素行不良が原因で退社)の画策により1965年にクラウンレコード、太平洋テレビなどと共同出資(西郷は50%)によって誠和プロを設立し、当面はクラウン・レコード宣伝部に事務所を置き、社長業を兼ねる。

ビート歌謡曲歌手として大人気であっただけでなく多くの映画に主演し、1960年代を代表する青春スターでした。

自ら我修院建吾のペンネームで雑誌『明星』に連載小説を書き、映画にもなった自作曲「傷だらけの天使」もヒットしました。銀川晶子、五代けんも西郷自身の作詞作曲時のペンネームです。またデビュー当時のキャッチフレーズは「太陽の王子」でした。

1965年5月10日に鹿児島市鹿児島体育館で行われた帰郷ショーで観客が入場口に殺到し、整理の警官1名が死亡、観客13名が負傷するという事故が起きています。

ここで紹介している曲、1966年に発売した「星のフラメンコ」は、30万枚を売り上げる大ヒットとなり、いくつかの歌手によるカバーのほか、タモリ(曲名は「肉のフラメンコ」[4])やCMなどにパロディー化もされています(本人出演のテレビCMでのセルフパロディーもあった)。

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