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昭和歌謡メロディー譜 『僕は泣いちっち』守屋浩

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楽譜のご紹介

 1960年の発表だそうです。浜口庫之助作曲で、この出だしのところが面白くて、子供のころ歌っていました。そして、すぐ上の兄と、将来東京へ行くことがあるのだろうか、あまりにも遠いので、たぶん無理ではないかなどといっていたのを思い出します。

 時代は今と違い、田舎ではあんまり自動車も走っておらず、代わりに馬が大量のうんこをしながら走る様子も見られました。私のうちは自営業者でしたので、数は少なかったのですが、住み込みの従業員もいました。今のようにいっぱい会社があるというのではないから、このような丁稚的な仕事の付き方も当時はまだあったのだろうと思います。

 そんな、彼は、ある日、店の金をちょろめかして、首になりました。そんなことを知らない、子供の私は、せっかくなれたのに何でやめるのかと問うと、黙して語らず、うなだれていました。多分、20歳前後の人だったと思うのですが、日活映画の影響か、荷物はギター一本でした。そして、去っていきました。

 地元の小学校の教師が新婚旅行のルートに出来立ての東京タワーを入れていて、帰ってから東京タワーの話をしていました。その話に大興奮した記憶があります。諸学校の入りたての頃でした。

いつものように、著作権有効ですので、有料になりますが、ちょっとだけ楽譜を紹介します。

楽譜はトランペット、トロンボーン、アルトサックス、フルートの順に並んでいます。楽譜をクリックすると販売サイトに飛びます。

守屋浩 僕は泣いちっち トランペット楽譜 
守屋浩 僕は泣いちっち トロンボーン楽譜
守屋浩 僕は泣いちっち アルトサックス楽譜
守屋浩 僕は泣いちっち フルート楽譜
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楽譜販売サイトのご案内

販売サイトはこちらです。Piascoreという楽譜専門販売サイトになります。楽譜の見本はトランペット用ですが、アルトサックス、フルート、トロンボーンの楽譜もございます。楽譜をクリックすると販売サイトに飛びます(ただ今メンテ中)

演奏例

曲の由来

1960年の作品です。作曲は浜口庫之助さんです。

守屋浩、本名:守屋 邦彦(もりや くにひこ)、1938年9月20日 – )は、千葉県出身の歌手、俳優です。安田学園中学校・高等学校卒業。

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所属事務所は1960年より堀プロダクション(現在のホリプロ)、所属レコード会社は日本コロムビア→日本クラウンでした。ホリプロ所属タレントでヒットした第1号です。現在もなおホリプロ所属である。

1957年、スイングウェストのバンドボーイとして芸能界入りし、1958年に日劇ウエスタンカーニバルでデビューする。ほぼ同時に堀プロダクションを設立した堀威夫の提案により芸名を「守屋浩」とします。

これは既に第一線で活躍していた井上ひろし、水原弘に合わせたものと言われている。3人合わせて「三人ひろし」と言われた時期もある(かまやつひろしを入れて「四人ひろし」となる場合もある)。

守屋は当時のロカビリーブームで大躍進し、茶の間にも知られるようになりました。

1960年の堀プロダクション設立後は同事務所に移籍(それ以前の所属事務所は不明)。この頃に歌謡曲に転向し、「夜空の笛」や「僕は泣いちっち」が大ヒットします。その後も「大学かぞえうた」や「有難や節」などをヒットさせました。

また映画でも活躍していた。その数は約20作あります。

1976年3月からはホリプロダクション(堀プロダクションを改名)の社員に転じ、同社の宣伝部長などを歴任、2011年現在ではホリプロのスカウト部長を兼務して新人の発掘などの業務を行い、また次代を担う若い歌手及び社員などの教育・指導にも当たっています。

なお、守屋はホリプロ(1990年再改名)創立当時より現在に至るまで在籍している唯一のタレントでもあります(守屋の次に在籍年数が長いのは和田アキ子である)。
そのため歌手・タレントしての活動は一時はほとんど行っていなかったが1990年代以降は本格的に活動を再開させ、懐メロ番組や歌のステージなどにも積極的に出演するようになりました。

近年、脳梗塞に倒れたがリハビリの末に復帰した。病気の後遺症もあり、2008年以降はステージに置かれた椅子に座っての歌唱となっている。

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