楽譜のご紹介
こちらの曲は昭和31年発表です。もう相当古くなります。大体昭和30年代は列車系のリズムを刻む曲が多い感じです。春日八郎さんの「赤いランプの終列車」などは典型的な汽車のリズムだと思います。
30年代中盤から後半にかけて、モータリゼーションの発達もあってか、バスや車のリズム感を入れた曲が多くなるように思います。「いつでも夢を」なんかがそれに当たるんではないかと思います。
今回も、有料の楽譜紹介ですが、イメージとしては、下記のようになります。
楽譜はトランペット、トロンボーン、アルトサックス、フルートの順に並んでいます。楽譜をクリックすると販売サイトに飛びます。
楽譜販売サイトのご案内
販売ページはこちらから入れます。Piascoreという楽譜専門販売サイトになります。見本はトランペットのものですが、アルトサックス、フルート、トロンボーンの楽譜もございます。楽譜をクリックすると販売サイトに飛びます。
演奏例
曲の由来
昭和31年発売 前奏部分も再現しています。楽譜としては途中の合いの手みたいなフレーズを入れていて、そこがちょっと難しいかもしれません。中級程度の人向けになると思います。
三橋 美智也(みはし みちや)、本名・北沢 美智也、1930年11月10日 – 1996年1月8日)は北海道上磯郡上磯町峨朗(現・北斗市)生まれ、函館市育ちの演歌歌手。愛称「ミッチー」。民謡で鍛えた伸びやかな高音と絶妙のこぶし回しを持ち味に、昭和30年代の日本の歌謡界黄金期をリードし、数多くのミリオンセラーを連発した、昭和歌謡界を代表する男性歌手の一人。特に全盛期の昭和30年代前半は「三橋で明けて三橋で暮れる」と言われるほどの絶大な人気を誇りました。
父は三橋が4歳の誕生日前日に落盤事故で亡くなり、翌年に母が再婚。この夫婦の間には3人の弟と1人の妹が出来る。
一方の三橋は5歳の頃から舞台を踏み、民謡歌手だった母に幼い頃から鍛えられ、小学校の入学と同時に叔父から追分を習い、9歳の時に全道民謡コンクールで優勝。
この頃に海で右耳をウツボに突っつかれ難聴になる。その後は巡業に参加などしつつ家計を支え、12歳の時にコロムビアで民謡を吹き込む。小学校卒業後は国鉄・木古内保線区に日雇作業員として就職する傍ら、津軽三味線を習い初め、白川軍八郎一座とともに修行を続けます。
16歳の時には三浦為七郎民謡一座、陸奥乃家演芸団に参加。19歳の時に「歌だけではなく違う世界も知りたい」と三味線一本を持って上京し、榎本健一・古川ロッパの家に弟子入り志願で出向いた事もありました。
その後は横浜市の綱島温泉「東京園」で民謡教室のアルバイトをする傍ら、ボイラーマンの仕事もしていました。人一倍真面目に働き、その勤勉さを風呂屋の主人に見込まれ、明治大学付属中野高等学校定時制に通うことを許されます。
高校入学と同時に「東京園」で世話になった北沢家と養子縁組をしたほか、NHK「邦楽オーディション」に合格。高校では普通の生徒よりもずっと年上で、彼らから「おとっさん」と呼ばれ親しまれました。
1953年、弟子の吹き込みに行った際、レッスンの声がディレクターの耳にとまり、キングレコードの専属歌手として契約。1954年に「酒の苦さよ」でデビュー。1955年に「おんな船頭唄」が大ヒットし、たちまち人気歌手の仲間入りを果たす。
その後も昭和30年代には「あの娘が泣いてる波止場」「リンゴ村から」「哀愁列車」「母恋吹雪」「おさらば東京」「夕焼けとんび」「古城」「達者でナ」「星屑の町」などの歌謡曲、「北海盆唄」「花笠音頭」「ソーラン節」「津軽じょんから節」「炭鉱節」「黒田節」などの民謡がミリオンセラーとなり、「三橋で明けて三橋で暮れる」と言われるほどの人気を得ます。
キングの全盛期を春日八郎・若原一郎と共に築き上げ、「キング三羽烏」「三人男」と呼ばれました。
1974年からはカール(明治製菓(現・明治))のコマーシャルソングを担当し、1993年まで20年間にわたって使われました。
1976年5月には帝国劇場で藤本義一脚本の舞台「津軽三味線ながれぶし」に出演し、山田五十鈴と共演。連日超満員の記録を作ったりしています。
同年8月には「日本各地に残る民謡こそ日本人の歌の故郷」という想いから、自ら家元になって「民謡三橋流」を創設。門下に千昌夫・細川たかし・石川さゆりらがいます。