【フルート用無料楽譜】マーラー交響曲第5番『アダージェット』(Mahler_Adagietto from Symphony No. 5)Flute sheet music

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楽譜のご紹介

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作曲者の略歴

グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860年7月7日 – 1911年5月18日)は、主にオーストリアのウィーンで活躍した作曲家・指揮者です。交響曲と歌曲の大家として知られています。

1860年 7月7日、父ベルンハルト・マーラー(Bernhard Mahler, 1827年 – 1889年)と母マリー・ヘルマン(Marie Hermann, 1837年 – 1889年)の間の第2子として、オーストリア帝国ボヘミア・イーグラウ(Iglau、現チェコのイフラヴァ Jihlava)近郊のカリシュト村(Kalischt、現チェコのカリシュチェ Kaliště)に生まれました。

夫妻の間には14人の子供が産まれています。しかし半数の7名は幼少時に様々な病気で死亡し、第一子(長男)のイージドールも早世しており、グスタフ・マーラーはいわば長男として育てられました。そのなか心臓水腫に長期間苦しんだ弟エルンストは、少年期のグスタフにとって悲しい体験となっていました。グスタフは盲目のエルンストを愛し、彼が死ぬまで数ヶ月間ベッドから離れずに世話をしたといいます。

父ベルンハルトは強く精力的な人物でした。当初は荷馬車での運搬業(行商)を仕事にしており、馬車に乗りながらあらゆる本を読んでいたため、「御者台の学者」というあだ名で呼ばれていました。独力で酒類製造業を開始し、ベルンハルトの蒸留所を家族は冗談で「工場」と呼んでいました。

ユダヤ人に転居の自由が許されてから一家はイーグラウに移住し、そこでも同じ商売を始めます。当時のイーグラウにはキリスト教ドイツ人も多く住んでおり、民族的な対立は少なかったのです。事業を成功させたベルンハルトは「ユダヤ人会」の役員を務めるとともに、イーグラウ・ユダヤ人の「プチ・ブルジョワ」としてドイツ人と広く交流を持っていました。
グスタフをはじめとする子供たちへも同様に教育を施し、幼いグスタフはドイツ語を話し、地元キリスト教教会の少年合唱団員としてキリスト教の合唱音楽を歌っていました。息子グスタフの音楽的才能をいち早く信じ、より完全な音楽教育を受けられるよう尽力したのもベルンハルトである。彼は非常に強い出世欲を持ち、子供たちにもその夢を託したのでした。

母マリーもユダヤ人で、石鹸製造業者の娘でした。ベルンハルトとは20歳の時に結婚しています。家柄はよかったのですが、心臓が悪く生まれつき片足が不自由であり、自分の望む結婚はできなかったということです。アルマ・マーラーは「あきらめの心境でベルンハルトと愛のない結婚をし、結婚生活は初日から不幸であったと書き記しています。その結婚自体は理想的な形で実現したとは言えないものの、夫妻の間には前述の通り多くの子が生まれています。ただし身体の不自由なマリーは、教育熱心な夫ベルンハルトと違い母親としての理想的な教育を子供たちに施すことができませんでした。グスタフは生涯この母親に対し「固定観念と言えるほど強い愛情」を持ち続けていました。

ベルンハルトの母(グスタフの祖母)は、行商を生業とする剛毅な人間でした。18歳の頃から大きな籠を背に売り歩いていました。晩年には、行商を規制したある法律に触れる事件を起こし、重刑を言い渡されたが、刑に服する気は毛頭なく、ただちにウィーンへ赴き皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に直訴しています。皇帝は彼女の体力と80歳という高齢に感動し、特赦しました。グスタフ・マーラーの一徹な性格はこの祖母譲りだとアルマは語っています。これが、グスタフを取り巻く幼少期のエピソードです。

個人的には、記憶に残っているのは、昔の『ベニスに死す』という映画のテーマとしてこの曲を聞いたことです。映画の内容がなんのことかさっぱりわからなかった当時の私は、海岸で死に瀕した主人公とそこに流れる曲の印象だけが残っていて、数十年間すっかり忘れていました。そして、トランペットをもい一度やってみようと思い立って、そういえば、あの曲を吹きたいと思ったうちの一つがこの曲です。もともと交響曲なので、ソロの演奏はなかなかありませんが、バイオリンとチェロがありました。

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