【トロンボーン用無料楽譜】マーラー交響曲第5番『アダージェット』(Mahler_Adagietto from Symphony No. 5)Trombone sheet music

クラシック曲集
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楽譜のご紹介

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マーラーのひととなり

この作曲者のマーラーは出自に関して後年「私は三重の意味で故郷がない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として」と語っています。マーラーは指揮者として高い地位を築いたにもかかわらず、作曲家としてはウィーンで評価されず、その(完成された)交響曲は10曲中7曲(第1番を現存版で考えると8曲)が、オーストリア人にとっては既に外国となっていたドイツで初演されています。マーラーにとって「アウトサイダー(部外者)」としての意識は生涯消えなかったとされ、最晩年には、ニューヨークでドイツ人ジャーナリストに「なに人か」問われ、そのジャーナリストの期待する答えである「ドイツ人」とは全く別に「私はボヘミアンです(Ich bin ein Böhme.)」と答えています。

酒造業者の息子として育ったマーラーは、「シュパーテンブロイ」という銘柄の黒ビールが好物でしたが、本人はあまり酒に強くはありませんでした。

アマチュアリズムを大いに好んだとされ、チャールズ・アイヴズの交響曲第3番を褒めちぎったのは、「彼もアマチュアだから」という理由が主なものだったと言われています。

マーラーは自身と同じユダヤ系の音楽家であるブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラーらにも大きな影響を与えています。特にワルターはマーラーに心酔し、音楽面だけでなく友人としてもマーラーを積極的に補佐しました。クレンペラーはマーラーの推薦により指揮者としてのキャリアを開始でき、そのことについて後年までマーラーに感謝していました。そのほか、ウィレム・メンゲルベルクやオスカー・フリートといった当時の一流指揮者もマーラーと交流し、強い影響を受けています。なかでもメンゲルベルクはマーラーから「私の作品を安心して任せられるほど信用できる人間は他にいない」との言葉を得るほどに高く評価されていました。メンゲルベルクはマーラーの死後、遺された作品の紹介に努めており、1920年の5月には6日から21日にかけてマーラーの管弦楽作品の全曲を演奏しています。

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一方、マーラーにはその一徹な性格から、周囲の反発を買うことも多かったといいます。楽団員からはマーラーの高圧的な態度(リハーサルで我慢できなくなったときに床を足で踏み鳴らす、音程の悪い団員やアインザッツが揃わない時に当人に向かって指揮棒を突き出す、など)が嫌われていました。
当時の反ユダヤ主義の隆盛とともにマーラーに対する態度は日々硬化しており、ある日、ヴァイオリン奏者の一人が「マーラーがなぜあんなに怒っているのか全く理解できない。ハンス・リヒターもひどいものだがね」と言ったところ、別の者が「そうだね。だけどリヒターは同じ仲間だ。マーラーには仕返ししてやるぜ」と言ったということです。当時のウィーンの音楽ジャーナリズムからも反ユダヤ主義に基づく不当な攻撃を受けており、これらはマーラーがヨーロッパを脱出した大きな要因です。
なおマーラーの「敵を作りやすい性格」については、クレンペラーがブダペスト放送での談話(1948年11月2日)にて以下の通り擁護しています。“マーラーは大変に活動的な、明るい天性を持っていました。自分の責務を果たさない人間に対してのみ、激怒せざるを得ませんでした。マーラーは暴君ではなく、むしろ非常に親切でした。若く貧しい芸術家やウィーン宮廷歌劇場への様々な寄付がそれを証明しています”と。加えてクレンペラーは1951年にも「朗らかでエネルギッシュであったマーラーは、無名の人間には極めて寛大であり助けを惜しまなかったが、思い上がった人間には冷淡だった」「マーラーは真っ暗闇でも、その存在で周囲を明るく照らした」と述べ、マーラーの死後に広まった一面的マーラー観(死の恐れに取り憑かれ、世界の苦を一身に背負い…など)を否定しています。

マーラーの死後、評論家たちはマーラーのヨーロッパ脱出を「文化の悲劇」と呼んでいました。しばしば引き合いに出される「やがて私の時代が来る」というマーラーの言葉は、1902年2月のアルマ宛書簡で、リヒャルト・シュトラウスのことに触れた際に登場しています。以下がその一文です。
“彼の時代は終わり、私の時代が来るのです。それまで私が君のそばで生きていられたらよいが!だが君は、私の光よ!君はきっと生きてその日にめぐりあえるでしょう!”

楽譜のほうは、ちょっと短いですが、これは是非上げておきたいということで、上げます。1971年に発表された『ベニスに死す』という映画で、この曲を知り、好きになりました。しかし、だれが作ったか題名も知らず、ただ、時は過ぎてゆき、すっかり忘れていました。個人的には、楽譜にして、何度も吹いたことがありますが、もう当然上げていると思っていましたが、忘れていました。

演奏例

Morte a Venezia – scena finale
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