楽譜のご紹介
1910年(明治43年)竹久27歳の夏、前年話し合って離婚したにもかかわらず、よりを戻した岸たまきと2歳の息子虹之助を伴い、房総方面に避暑旅行します。銚子から犬吠埼に向かい、あしか(海鹿)島の宮下旅館に滞在しました。ここは太平洋に向かう見晴らしの良さで、明治から多くの文人が訪れた名所でした。
たまたま当地に来ていた女性、秋田出身の長谷川カタ(賢:当時19歳)に出会います。彼女は、成田の高等女学校の教師である姉のところに身を寄せていましたが、長谷川一家も秋田から宮下旅館の隣家に転居しており、夏休みに家族を訪ねて来て、そこで竹久と出会ってしまうというこちになってしまいます。
親しく話すうち彼女に心を惹かれ、竹久は呼び出してつかの間の逢瀬を持ちます。散歩する二人の姿はしばしば近隣住民にも見られています。しかし結ばれることのないまま、竹久は家族を連れて帰京します。
カタも夏休みが終わると成田へ戻り、父親は娘の身を案じ結婚を急がせたのです。
翌年、再びこの地を訪れた竹久は彼女が嫁いだことを知り、自らの失恋を悟ります。この海辺でいくら待ってももう現れることのない女性を想い、悲しみにふけったといわれています。
(この曲は詩のほうが先行して作られています。ご存知の人も多いと思いますが、画家・詩人の竹久 夢二によるものです。当時は大人気の先生だったわけで、田舎のねえちゃんなんか一ころにだませるところが、なびいてこなかった女性がいて歯がゆく思ったのでしょう。翌年にその地を訪れてみたら、サッサと結婚して、いなくなっていたという、そんなときにその気持ちを歌ったのだそうです。50年たらずの短い生涯にわたり恋多き竹久でしたが、というか当時の平均寿命ぐらいでしたが、決して振られた女性の気持ちを歌っていません。もしかして、軍国主義日本ができる前には、男も草食系だったのかもしれません。あるいは、当時の時間の感覚が今と違って、とにかく欲望に忠実だったのかもしれません。いずれにしろ、なんかどうも夢二という人がいまいち好きになれません。)
宵を待って花を咲かせる宵待草にこと寄せ、実らぬ恋を憂う気持がこの詩を着想させたのでした。そんなことが通用する時代だったのか、それとも当時としては、ぶっ飛んだ発想だったのか不明ですが、客観的に見るとずいぶんと虫のいい話とも思います。
宵待ち草というのはこんな花です。というか正確に言うと名前が違います。勿忘草はその左側のものです。
50年以上前の中学生の時の教科書に載っていて、それをトランペットで吹いたことがあります。すると、母親がその曲を知っているといって、意外だと思たことがありました。なぜならば、大正初期の流行歌だからです。母は昭和の初めのほうの生まれですので、ギャップがあります。と思ったら、リバイバルで山口淑子さんなどが歌っていたようです(たぶん昭和の10年代です)。それと、高峰三枝子さんも戦前にヒットさせています。