楽譜のご紹介
アヴェ・マリアはいろいろありますが、中でも一番知名度が低く、おなじみでないのが、このカッチーニのアベ・マリアだと思います。しかし、だからこそ、より一層の深みを感じる気がします。カッチーニは1545年頃 の産まれといわれ、イタリア・ルネサンス後期の音楽家ということで、有名どころのアベ・マリアの中では一番、古いということも関係あるかもしれません。
カッチーニ(1545年頃 – 1618年)の前半生についてはほとんど知られていません。ローマかティヴォリのどちらかで生まれ、フィレンツェの彫刻家ジョヴァンニ・カッチーニ(Giovanni Caccini)と関連があるかもしれないとされています。ローマで彼はリュート、ヴィオール、ハープを習い、歌手としての名声を博しはじめました。1560年代、コジモ・デ・メディチが彼の才能に感銘を受けたことから、若きカッチーニに更なる勉学をさせようとにフィレンツェへ招いたのでした。
そんなことで、1579年には、カッチーニはメディチ家の宮廷で歌手をしていました。彼の声域はテノールであり、また自分自身でヴィオールの伴奏を付けることもできました。
彼は婚礼や国事など様々な宴会で歌い、当時の壮麗なインテルメディオ(オペラの先駆の一つとされる、精密な音楽・劇・映像的見せ物)で役目を果たします。
またこの時期に、彼は人文学者、作家、音楽家、考古学者達の活動に加わっっています。彼らはジョヴァンニ・デ・バルディ(Giovanni de’ Bardi)伯爵の邸宅に集まり、失われたと思われている古代ギリシャの劇音楽の栄光を復活させようとする団体、「カメラータ」を結成しています。この辺は、昔、世界史で習った内容で、リアルなルネサンス活動の一つなのでしょう。
カッチーニの歌手、楽器奏者、作曲家としての才能によって、カメラータはモノディ様式を確立し、それはルネッサンス末期のポリフォニー音楽の慣習からの革命的な新発展となりました。(モノディ様式については、フルートのところで触れています。)
16世紀末の20年間、カッチーニは歌手、教師、作曲家としての仕事を続けます。中でも、彼の教師としての影響力は大きく、何十人もの歌手に新たなスタイルで歌うことを教えています。その教え子の中には、クラウディオ・モンテヴェルディの最初のオペラ「オルフェーオ」の主役として歌ったカストラートのジョヴァンニ・グアルベルト・マリ(Giovanni Gualberto Magli)もいました。
改めて、アヴェ・マリアを作曲した音楽家を調べると一般的なものだけでも、シューベルト/
グノー /カッチーニ /ジョスカン・デ・プレ/ブラームス /ブルックナー /エルガー/ドニゼッティ /ヴェルディ /リスト という多くの音楽家がチャレンジしています。
アヴェ・マリア(ラテン語: Ave Maria)は、ラテン語で直訳すると「こんにちは、マリア」または「おめでとう、マリア」を意味する言葉です。転じて、この一文にはじまるキリスト教(特にカトリック教会)の聖母マリアへの祈祷を指します。この祈りは教会によって伝えられるのもで、典礼行為ではなく、私的な信心業として伝わるものなのだそうです。
この祈祷のための教会音楽や、祈祷文を歌詞にした音楽作品なども意味し、グレゴリオ聖歌はもとよりさまざまな楽曲が存在します。
このカッチーニのアヴェ・マリアの歌詞ですが、大部分が『アヴェ・マリア』の連呼になっています。こういう伝統があるから、こんな曲ができたのでしょうか。
ジュリオ・カッチーニヤコポ・ペーリとならんでモノディー様式の代表的な音楽家の一人として知られています。
モノディまたはモノディー(ドイツ語・フランス語: Monodie, イタリア語: monodia, 英語: monody)とは、16世紀終わりにフィレンツェ・ローマを中心に生まれた新しい独唱スタイルの音楽をいいます。独唱、または重唱の歌手と伴奏の楽器で演奏され、多くは弾き語りでした。
それまでの音楽は、多声部で書かれたポリフォニーを中心とし、均整のとれた滑らかな響きを指向するルネサンス音楽が主流でした。
歌詞の言葉の意味をはっきりと表現し、また聞き取りたいという当時の知識人の要求から、独唱また少ない人数の重唱に伴奏楽器を伴う音楽が生まれました。これがレチタール・カンタンドrecitar cantando(語りながら歌う)と呼ばれるものです。
なかでも、モノディは、この様式の独唱歌曲を指す言葉です。一般的にはこのレチタール・カンタンド様式を指して使われる用語です。
作曲の上での高い自由度ゆえに、極めて幅の広い音楽表現が可能になり、バロック音楽誕生の一つのきっかけとなったとされています。