楽譜のご紹介
作曲者のビクター・ヤングはイリノイ州シカゴ出身のポーランド系ユダヤ人。最初コンサートヴァイオリニストとして出発しましたが、テッド・フィオリト楽団に参加したことで、ポピュラー音楽の分野に移ました。多くの軽音楽を作り、ビング・クロスビーなどの歌手に曲を提供しました。1930年代中頃より映画音楽に専念するために、ハリウッドに移ります。
彼はアカデミー賞に22回ノミネートされますが、生前に受賞することはできず、死後に『八十日間世界一周』(1956年)でアカデミー作曲賞を受賞しました。『ゴールデン・ボーイ』(1939年)、『ガリバー旅行記』(1939年)、『誰が為に鐘は鳴る』(1943年)、『ラブレター』(1945年)、『サムソンとデリラ』(1949年)、『愚かなり我が心』(1949年)、『血闘』(1952年)、『静かなる男』(1952年)、『戰う雷鳥師団』(1952年)、『シェーン』(1953年)などの作品があります。最後の作品はヤングの死後、1957年にパラマウント映画から公開されたコーネル・ワイルド主演の『勇者カイヤム』でした。
カリフォルニア州パームスプリングスで脳出血のため57歳で死去。
今は、直筆の文書を書いて、誰かに渡すなどということはめったになくなりました。会社でも昔(ワープロが普及する前)は、字がうまいと書類のまとめなどをやらされることが多く、如何にきれいに見せるかということがその人の能力の一部になっていたように思います。それが、ワープロの出現やパソコンの普及で、字にコンプレックスを感じていた人にとっては、生きやすくなったと思います。しかし、先日(10年以上前)、東京都知事立候補者の殴り書きのような字を見て、一瞬、何だこの人はと思った自分があって、やはり、そういう感覚がいまだにあるのだろうと思っています。
1945年の映画『ラブ・レター』の主題歌。筆無精の兵士が、恋人への手紙を友だちに書いてもらうことにしたら、その友だちが恋人と恋に落ちてしまったという映画です。
作品はちょうど日本が敗戦となる1945年です。それで思い出すのが、高校の時の英語の教師の話です。当時、戦後20年以上たっていましたが、太平洋戦争をこのあいだの戦争といっていて、『なんだ、この爺さんは…』と思っていました。ベランメー口調で、すでに60歳は越えていると思われる人でした。終戦後すぐに、得意の英語力を生かして、米兵の本国で待っている?恋人のために、ラブレターを代わりに書くということをして日銭を稼いだということです。いわく、米兵はまともな文字もかけないものが少なくない、そして、芋みたいな指をしていて、風呂敷もほどけない、・・・などなど。考えてみると、自分もそのぐらいの年齢になってみると、20数年前はほんのちょっと前のことに思えますし、米国は移民の国だから、文字が読めない、かけないという人も多かったのだと思います。