楽譜のご紹介
原曲は、黒人のメソジスト牧師でゴスペル音楽作曲家チャールズ・ティンドリー(en:Charles Albert Tindley、1851年-1933年)が1901年に発表した霊歌「アイル・オーバーカム・サムデー」(”I’ll Overcome Someday”)。
1960年代にアフリカ系アメリカ人公民権運動が高まる中フォークシンガーピート・シーガーが広め、運動を象徴する歌にしました。
ジョーン・バエズ、上條恒彦、小室等、高石ともやらによる録音があります。反戦運動・平和運動や社会運動、うたごえ運動・歌声喫茶でも広く歌われてきました。賛美歌『勝利を望み』にもなっています。
この曲の原曲を作った黒人の牧師でゴスペル音楽作曲家チャールズ・ティンドリー(en:Charles Albert Tindley、1851年-1933年)はメソジストでした。そこの歴史を知らないと、ちょっと意味がつながらないと思いますので、少し長いのですがご紹介します。
メソジストとは、プロテスタントの大教派の一つ。1739年にウェスレーらがイングランドのオックスフォードで起こした敬虔主義運動。メソジスト監督教会として独立。信仰経験を重んじ、教育施設を設け、禁酒・矯風運動に熱心です。メソジストは、聖書に示す方法(method)で生きる、との意からきた名。要は、当時のイギリス国教会の儀礼的なものに対する批判勢力となるため、妨害なども受けます。日本では美以教会とも言われていました。
メソジストは本国英国ではさほどの勢力にはならなかったのですが、アイルランド、アメリカ、ドイツなどに早くから布教し、メソジスト教団は、現在アメリカでは信徒数が2番目に多いプロテスタント教団になっています。
ちなみに、一番多いのはバプテスト教会です。信条としてはルター派に近く、悔い改めによる救済を強調しています。カルヴァンの説いた予定説的な考え方はとりません。
これゆえ、ヨーロッパ大陸におけるプロテスタントの二大潮流であるルター派と改革派教会は、イングランドと米国ではメソジスト派と長老派にほぼ重なります。
これが新大陸アメリカに宣教され、まだ開拓時代の西部へと急速に広がっていく過程において、その性質をかなり変貌させていきます。教派の通称にもなっていたメソッド(謹厳な生活方式)は二の次にされ、ウェスレーの説いた教義のある部分と大衆運動という側面が強調されていきました。
すなわち、救いは罪の自覚とともにすでにあるものとして体験されるというスピリチュアルな喜びと、その喜びに基づいて、この現世において神の国を実現しようという強烈な社会変革意欲でした。
こうして、開拓時代のアメリカで宣教に当たった説教者たちの多くは、専門教育こそ充分に受けてはいないが、熱烈な信仰心をもち、社会事業へのバイタリティにあふれた人たちでした。
特徴としては、日課を区切った規則正しい生活方法(メソッド)を推奨していました。メソジストという名称は「メソッド」を重んじることから「几帳面屋」(メソジスト)とあだ名されたことに始まっています。
規則正しい生活が実践できているかどうか、互いに報告し合う少人数の組会、また、信仰のレベル別のバンド・ミーティングを重視しました。
このため軍隊や学校と相性がよく、ミッションスクールや病院の建設、貧民救済などの社会福祉にも熱心です。当時は教育の機会に恵まれない子どもに一般教育を与える日曜学校(教会学校としてキリスト教教育を施すように時代とともに変化した)や、当時の流行歌に歌詞をつけ、口語による平易な讃美歌を普及させたのもメソジスト教徒が中心でした。概して上流階級よりも中下層階級あるいは軍人への普及に力を入れていました。
1828年米国メソジスト監督教会より、教会政治の意見の相違によりメソジスト・プロテスタントが分離独立しました。1843年奴隷問題を巡って、ウェスレアン・メソジスト教会が分裂しました。ウエスレアン・メソジスト教会は、その後、他の教会と合同し、現在はウエスレアン教会となっています。
米国の南北戦争では教会自体も南北にわかれて戦っています。
メソジスト監督教会は1854年南北に分裂し、北部にはメソジスト監督教会、南部には南メソジスト監督教会が組織されました。
1939年再合同し、1968年Evangelical United Brethrenとも合同し、現在の合同メソジスト教会 (United Methodist Church) となりました。ジョージ・W・ブッシュ元大統領夫妻が熱心な信者です。
ここまでの流れから、アメリカでのキリスト教という意味合いとその中での社会運動というのが密接につながっていることがわかるように思います。
楽譜としては、非常に簡単な曲で、初心者向けになると思います。1960年代のアメリカで公民権運動を象徴するような曲として広まり、日本にも紹介された曲です。といっても当時子供だったので、ジョーン・バエズのちょっと変わった感じの歌い方ととんがった感じの歌声が印象に残っているだけで、意味はあんまり分かりませんでした。
この曲は、もともと黒人の牧師による作曲でゴスペル音楽としてできていました。それを、公民権運動の時に、フォークシンガーのビート・シーガーが広め、日本にも伝わったということらしいです。
勝利を我等に(しょうりをわれらに、英語: We Shall Overcome、ウイ・シャル・オーヴァーカム、直訳では「我らは打ち勝つ」)は、アメリカ合衆国のプロテストソングです。
特に難しいこともない曲です。もともとがゴスペルソングなので、簡単だからこそ、いろいろいじれる曲ともいえます。1960年代に公民権運動とともによく耳にする曲となったわけですが、あんまり意味が分かりませんでした。
小学生の時に、教師から、アメリカでは人種差別というのがあって、トイレも違うしレストランも違うし学校も違うし・・などなど、その実態を聞いたことがありました。へー、そうなんだということで、印象には残りましたが、想像ができませんでした。日本にもいろいろな差別があったようですが、幸いにも私の身近な地域にはなかった、あるいは気が付かなかったせいで、全く理解できませんでした。
その後、大人になって激しいパワハラを受けたときに、これはもしかしたら、力づくで犯されている女性の感覚に似ているのかもしれないと思ったことがあります。つまり自分の中に無理やり棒を突っ込まれる感じです。ちょっと下品ですが、それが日常的に起こっていると解釈すべきだろうと。想像しても足りないのかもしれません。ただ、想像するしか手立てはないので、そうしたほうがいいと・・。憎む感情と同情する想像力と紙一重なのかもしれないと思う今日この頃です。
1960年代の日本は、とにかく、アメリカ物はなんでも取り入れる時代だったように思います。だから、詳しいことは問題ではなく、コマーシャル的にはやったという感じがします。