楽譜のご紹介
今まであげた中では最も簡単な曲のひとつだと思います。竹田の子守唄とは、現在の京都府の被差別部落に伝えられた民謡、およびそれを基にしたポピュラー音楽の歌曲です。50代から上の年代ならだれもがきいた曲だと思います。
この曲は複数の被差別部落に伝わる子守り歌(子守の仕事をしている子供の労働歌)でした。この民謡・歌曲が注目されたきっかけは1969年にフォークグループの「赤い鳥」が「第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」で演奏したことです。
しかし、そもそもは住井すゑの『橋のない川』が舞台化される際、音楽担当であった尾上和彦が被差別部落の一つである京都市伏見区竹田地区で採集した民謡を編曲して使ったものです。それが竹田地区の部落解放同盟の合唱団のレパートリーとなり、フォーク歌手達にも広まったと考えられています。尾上が採集したのがたまたま竹田地区であったので、「竹田の子守唄」とされました。それ以前は題名が付いていなかったわけです。
赤い鳥のメジャーデビュー曲「人生」は、「竹田の子守唄」の歌詞を変更したもの(替え歌)でした。 いくつかのフォーク歌手が歌うのを聴き、赤い鳥も歌うようになった。はじめ、この曲の由来や意味も理解していなかった彼らですが、ヒットをきっかけに背景を調べ、自分達のものにしていきました。原曲の歌詞では意味が分かりづらいという判断から歌詞が変更されたものの、ヒットはしませんでした。
しかし、東芝レコードの新田和長ディレクターの判断で、原曲の歌詞のまま発売したところ、ヒットとなったということです。
1971年2月5日にシングル・カットして3年間でミリオンセラーとなります。しかし、被差別部落絡みの楽曲であったために日本の放送局はこの楽曲を放送したがらなくなり、いわゆる封印作品として長い間、放送されることがなくなりました。
1990年代に封印は緩和され、赤い鳥の解散後に結成された紙ふうせんを始め、多くの歌手によってカヴァーされています。B面曲は「翼をください」です。
また、中華圏では、世界の平和を願う内容の歌詞がつけられ「祈祷」というタイトルで歌われています。ジュディ・オングが歌いはじめたのが最初で、のちに王傑ら台湾人歌手によってカバーされ広く普及しました。歌詞はジュディ・オングの父親がつけたということです。
竹田の子守唄は、一般に良く知られたものですが、どうも明るすぎるんじゃないか、と思っていたのですが、本物が出てましたので、添付します。この画像にあるとおり、歌われていたのは、今なら小学生の子供たちの境遇を歌うものだったということです。たった100年ぐらい前の話です。(この曲がはやっていたのは、今思うと50年ぐらい前というのも、驚きです。子守経験者が生きていたということですから・・・。)