わが祖国』(わがそこく、チェコ語: Ma Vlast)は、ベドルジハ・スメタナの代表的な作品で、1874年から1879年にかけて作曲された6つの交響詩からなる連作交響詩。ここで紹介している楽譜でもある第2曲『ヴルタヴァ(モルダウ)』が特に著名です。
各楽曲の初演は1875年から1880年にかけて、別々に行われており、全6作通しての初演は1882年11月5日、プラハ国民劇場横のジョフィーン島(チェコ語版)にある会場において、アドルフ・チェフの指揮の下で行われました。
題名となっているのは、プラハ市街を流れるヴルタヴァ川(ドイツ語名:モルダウ川)のことです。
この曲について、スメタナ(1824年3月2日 – 1884年5月12日)は、以下のように述べています。
この曲は、ヴルタヴァ川の流れを描写している。ヴルタヴァ川は、Tepla Vltava と Studena Vltava と呼ばれる2つの源流から流れだし、それらが合流し一つの流れとなる。そして森林や牧草地を経て、農夫たちの結婚式の傍を流れる。夜となり、月光の下、水の妖精たちが舞う。岩に潰され廃墟となった気高き城と宮殿の傍を流れ、ヴルタヴァ川は聖ヤン(ヨハネ)の急流 (cs) で渦を巻く。そこを抜けると、川幅が広がりながらヴィシェフラドの傍を流れてプラハへと流れる。そして長い流れを経て、最後はラベ川(ドイツ語名:エルベ川)へと消えていく。
なぜだか、季節が冬に向かって寒さが増すときに、決まって思い出す曲です。川のうねりを表現しているような、16分音符のところを付け加えておきました。メインのメロディーラインだけでなく、ここもふけるといいかなあという感じです。
スメタナというと、この曲が一番有名です。『わが祖国』ということで、チェコスロバキアがオーストリア・ハンガリー帝国の支配のもとにあった時代のことです。しかし、このチェコスロバキアについて、私は従来から訳が分からず、なんとなくもやもやする国であったことは否めません。そもそも、どのような国なのか。かくも哀愁に満ち、高鳴る気持ちを歌うその国とは?
ということで、調べました。民族的にはスラブ民族のようです。では、スラブ民族とは。発祥の地は黒海あたりにあり、そこから異民族の侵入や移動に伴ってヨーロッパやバルカン半島、スカンジナビア半島、ロシア、東欧に広がっていったのだそうです。そこんところを全くストレスなく、説明されている動画がありました。
中世以降はハプスブルク家の支配が長く続きました。スメタナの生きた時代は、ちょうどヨーロッパに資本主義的動きと、革命などによる自由主義的な動きがあった時代でもありました。チェコはオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にありました。そんな時代でも、オーストリアは自由主義的な動きを抑え込むために、多数派のハンガリーだけを優遇しました。そんな背景があります。
しかし、その後もこの体制は第1次大戦後まで続き、やっと独立したかと思ったら、ヒトラーによって解体され、戦後はソ連により支配されたということです。1968年にはプラハの春と呼ばれる改革運動が起こりますが、ワルシャワ条約機構軍の侵攻を受け、改革派は弾圧されました。しかし、1989年のビロード革命により共産党政権は崩壊、1993年にチェコとスロヴァキアが分離するとプラハを首都としたチェコが生まれます。
スメタナの略歴
スメタナは、元々ピアニストとして才能を発揮しており、6歳の時には既にピアノ公演も経験している。通常の学業を修めたのち、彼はプラハでヨゼフ・プロクシュの下で音楽を学んでいます。彼の最初の民族主義的な楽曲は、彼もわずかに関係した1848年プラハ反乱の中で書かれました。しかし、この時期にはプラハで成功することはなく、スメタナはスウェーデンへと移住しました。
移住先のスウェーデン・ヨーテボリで、スメタナは音楽教師、聖歌隊指揮者として著名になりました。また、この頃から規模の大きいオーケストラ音楽の作曲を開始しています。
1860年代初頭、これまで中央集権的なオーストリア帝国政府のボヘミア(チェコ)への政治姿勢が自由主義的なものへと変化しつつあったことから、スメタナはプラハへと戻りました。プラハに戻ってからは、チェコオペラという新たなジャンルの最も優れた作曲家として、人生を過ごします。
1866年に、スメタナ初のオペラ作品『ボヘミアのブランデンブルク人』と『売られた花嫁』が、プラハの仮劇場で初演されています。後者は後に大きな人気を得ることになります。
同年には、スメタナは同劇場の指揮者に就任してますが、彼の指揮者ぶりは論争の的となりました。プラハの音楽関係者たちのある派閥は、彼を「チェコのオペラスタイルの発展とは反目するフランツ・リストやリヒャルト・ワーグナーの前衛的なアイデアを用いる指揮者」であると考えていました。その対立はスメタナの創作業にも暗い影を落としたばかりか、健康状態をも急速に悪化させます。最終的に健康状態の悪化が原因で、1874年にスメタナは同劇場の職を辞しています。
仮劇場を辞した1874年の末頃になると、スメタナは完全に失聴してしまいますが、その一方で劇場の義務と、それに関連する論争からは解放されました。この後、スメタナは残りの人生のほとんどを作曲に費やすようになります。彼のチェコ音楽への貢献は、ますます著名になり大きな名声を得ることになりました。しかし精神を蝕む病に侵されたことから、1884年には保護施設へと収監され、それから間もなく亡くなりました。
現在でも、チェコにおいては、スメタナはチェコ音楽の創始者として広く知られており、彼の同世代たちと後継者たちよりも上に位置付けられています。しかしながら、スメタナの作品はその内の少数が国際的に知られるのみで、チェコ国外においては、アントニン・レオポルト・ドヴォルザークがより重要なチェコの作曲家であるとされることが多いのです。