楽譜のご紹介
『荒城の月』 (こうじょう/くわうじやう・の・つき) は、土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲による歌曲。哀切をおびたメロディと歌詞が特徴です。七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディが融合した楽曲といえます。
1901年(明治34年)に中学校(旧制中学校)唱歌の懸賞の応募作品として、瀧廉太郎が作曲したものです。原曲は無伴奏の歌曲でした。
この曲を作曲して2年後の1903年(明治36年)に瀧が没し、その後の1917年(大正6年)山田耕筰はロ短調から短三度上のニ短調へ移調、ピアノ・パートを補い、旋律にも改変を加えました。山田版は全8小節からテンポを半分にしたのに伴い16小節に変更し、一番の歌詞でいえば「花の宴」の「え」の音を、原曲より半音下げて(シャープをとって)います。
この曲を21歳で作曲し、2年後になくなってしまった滝廉太郎、なんとも早すぎる死です。死因は結核で、当時としては、隔離されるような病気だったと思われ、最後が残念な状態だったようです。どことなく、暗いイメージがあるのは、そんなところからかもしれません。
誰もが1番の詩ぐらいは覚えていると思いますが、この『千代の松枝』の千代は仙台の意味で、仙台の青葉城のことを言っているのだということが言われています。本当かどうかはわかりませんが、そのほうが想像力を掻き立てるとも言えます。
しかし、このお城に関してはいろいろなことが言われていて、どこのものという特定はできないと思います。土井晩翠が詞を構想したとされる宮城県仙台市の青葉城址、同じく福島県会津若松市の鶴ヶ城址、また、当時、リンゴ狩りに訪れた際に立ち寄った岩手県二戸市の九戸城址、そして瀧廉太郎が曲を構想したとされる大分県竹田市の岡城址、同じく富山県富山市富山城西側にそれぞれ歌碑が設置されています。
誰もが知っている日本的なメロディーということですが、詩の内容がかなり日本的でありながら、普遍的なものを言っているようで、いいとは思います。しかし、おなじみすぎてなかなか、これを吹いたことはありません。明治に入って変わりゆく時代の流れを意識した曲なのかもしれないと思ったりします。