≪ラヴェルの生い立ち≫
作曲家のラヴェルはフランスとスペインの国境付近にあるバスク地方で生まれました。
父親がスイス人、母親はバスク人だったのですが、活躍したのがフランスだったので便宜上フランス人扱いになっています。父親が音楽好きだったので、ラヴェルも小さい頃からピアノや作曲を習っていました。そして素養があると見た両親は、パリ音楽院(パリ国立高等音楽・舞踊学校)に進学させます。
パリ音楽院はフランスだけでなく各国から音楽やバレエを学びに来る人がたくさんおります。有名どころでは、サン=サーンス(動物の謝肉祭の人)やビゼー(カルメンの人)などの音楽家が卒業していました。しかし、
≪留学試験に5回も失敗≫
ラヴェルはパリ音楽院に入学し、23歳で公式デビューを果たし、ローマ賞という当時のフランスの奨学金付き留学制度に応募します。しかし五回挑戦しても全て落選しています。既に「亡き王女のためのパヴァーヌ」や「水の戯れ」を発表した後であり、専門家からも一般人からも高い評価を受けていました。本人の才能もあるのに、何かほかの理由があるのではないか、ということで、審査方法を確認してみると、大変な事実が発覚します。
入賞者が全員審査員の弟子だったことが発覚しました。ラヴェルが応募した最後の回がそんなことになり、希望をかなえることができなかったのでした。
その後、当時の学院長がクビになり、フォーレが新しくその座に就いたことで、次の回からは公正な審査が約束されました。いずれにしろ、ラヴェルの青春時代のつまずきの第1歩目です。
ラヴェルが入学した頃にはフォーレが教鞭を取っており、直接学ぶことができたようです。また、同世代の作曲家や他分野の芸術家とも親しみ、大きく影響を受けました。
≪大戦中のラヴェル≫
ラヴェル39歳のとき、自ら志願兵になろうとします。ちょうど第1次世界大戦が起こり、母国フランスのために力にならんとした選択でした。しかし、そもそも彼は丈夫でもないし若くもなく、無鉄砲な感じがします。前線兵士としては当然断られます。しかし、兵站(物資輸送担当)として、前線に向かうことになります。もし、この時に何かあったら、このラヴェルの曲はなかったということです。
さらに戦中母親の訃報が届き、戦争が終わってもショックから立ち直ることができず、知人にあてた手紙の中で「日々絶望が深まっていく」と書いています。
音楽の中で、一定のフレーズを繰り返すという手法のものはたくさんあって、そのしつこさがまた、アピールすることになるのだろうと思います。そんな、代表格のような気がします。
ただ、『飛んで、飛んで、飛んで、飛んで、回って、回って…』という曲や、もう聞くことがめったになくなった湯原昌幸の雨のバラードなど、曲を聴いたときには、『その奥の手を使っちゃうの?』、『そんなエチュードみたいな曲を歌謡曲にしていいの』と思う瞬間がありました。
いずれにしても、20世紀に入って、リズムというものが重要視されてきたことは間違いないと思います。そんな影響がこの曲にもきっとあると思います。この曲ができたのは、1928年ですので、ジャズエイジということでもあります。新しい音楽がアメリカでまさに花開いていた時期と重なるわけです。
このことを書いた後、調べてみたら、確かにラヴェルはアメリカにわたって、演奏旅行をしています。しかも成功をおさめ、その後この『ボレロ』を作曲しています。
しかし、同時にその後の人生は記憶障害・言語障害のために、作曲活動も思うようにならず、相当心理的にも苦しい生活を送ります。
ラヴェルの作曲意欲は大幅に低下してしまいました。この曲を作ったのが1928年ですから、多分52~53歳ごろです。
最後は脳の手術の失敗によりなくなるといった悲惨な最後となります。1937年、享年62歳でした。