楽譜のご紹介
「この道」は、北原白秋作詞、山田耕筰作曲の日本の童謡です。
歌詞には、北原白秋が晩年に旅行した北海道と、母の実家である熊本県南関町から柳川までの道の情景が歌い込まれています。また日本の歌百選にも選ばれている曲です。
「あかしやの花」や「時計台」から、札幌市中央区の北1条通とするのが定説になっています。しかし現在この通りは、片側4車線ある、札幌市中心街では南4条通(月寒通り)とならぶ幹線になっており、往時の面影は全くありません。
今は、結構な田舎でも舗装され、道もきれいですから、そのような道を今の子供は想像するかもしれませんが、当時は多分、それはないでしょう。
一方、作曲した山田耕筰はこんな人でした。幼少時の略歴から、どんな契機で音楽の道に行ったのかがわかります。
東京府東京市本郷(現在の東京都文京区)の医師でキリスト教伝道者の父の下に生まれます。1896年、10歳の時に実父を亡くします。
実父の遺言で、巣鴨宮下(現在の南大塚)にあった自営館(後の日本基督教団巣鴨教会)に入館し、13歳まで施設で苦学します。1899年、13歳のとき、姉のガントレット恒を頼り岡山の養忠学校に入学。
姉の夫のエドワード・ガントレットに西洋音楽の手ほどきをうけています。14歳のとき、関西学院中学部に転校。同本科中退を経て1904年、東京音楽学校予科入学、1908年、東京音楽学校(後の東京藝術大学)声楽科を卒業。
1910年(明治43年)から3年間、三菱財閥の総帥岩崎小弥太の援助を受けてドイツのベルリン王立芸術アカデミー作曲科に留学し、マックス・ブルッフなどに学びます。ベルリン時代の1912年(大正元年)には日本人初の交響曲『かちどきと平和』を作曲しています。
その後も岩崎の援助を得ていましたが、ちょっと恋愛問題で嫌われて、岩崎からの援助は得られなくなります。結婚したばかりの山田耕筰は、幼なじみの女性と恋に落ちてしまっためであるといわれています。