楽譜のご紹介
「君恋し」(きみこいし)は、時雨音羽作詞・佐々紅華作曲の歌謡曲(流行歌)のタイトルです。昭和初期の流行歌に多い、二部形式の作品です。
佐々紅華が「君恋し」を作曲したのは大正十一年頃のことです。この時は佐々自身が作詞しており、後年の時雨音羽のリヴァイバル歌詞とは異なています。
二村定一が大正期から舞台で愛唱し、二村によって東京レコードに吹き込まれたとされる説がありますが、現存品未確認で且つ月報や総目録にも掲載が無いため未発売と考えられています。その後、高井ルビーにより日本蓄音器商会(ニッポノホン)に吹込まれ、1926年10月24日に11月新譜として発売されています。このニッポノホン盤は、後にオリエントレコードの1929年6月新譜として再発売されています。
1928年(昭和3年)10月5日、浅草・電気館レヴューで人気を集めていた歌手・二村定一が日本ビクター蓄音器株式会社に録音し、12月20日に1月新譜として発売されました。この時は時雨音羽によって新しく作られた歌詞でした。ただし佐々紅華の希望により、歌詞の「君恋し」だけは残される形となりました。二村は発売の前から電気館レヴューでレパートリーに組み込むなどして宣伝し、この時雨音羽バージョンは二村の代表曲の一つとなりました。昭和初期を代表するヒット曲であるとともに、「波浮の港」や「東京行進曲」などと並ぶ、流行歌のレコードの草創期を飾る作品でした。
現在良く知られているのはこの版です。時雨音羽版「君恋し」は、1929年(昭和4年)9月時点で20万枚の大ヒットとなりました。時雨音羽版「君恋し」の大ヒットに便乗して、佐々紅華の作品の権利を管理していた日本蓄音器商会では高井ルビーの旧譜を冊発売したほか、木村時子、石田一松、カフェー・タイガーの女給らを登用した佐々紅華作詞バージョンの「君恋し」レコードも制作発売しています。
二村定一のレコードの井田一郎によるアレンジは、日本ビクター・ジャズバンドが演奏しています。編成はサックス2・トランペット・トロンボーン・バンジョー・ドラムス・ヴァイオリン・チューバ。曲は当時流行したフォックストロットの軽快なリズムを用い、十小節の短いイントロで始まりヴォーカルは1番から3番までの歌詞を一気に歌う形になっていました。
後奏にはインストルメンタルで「ホーム・スイート・ホーム」(埴生の宿)が引用されるという形です。古風な歌詞とジャズ音楽の取り合わせが独特の雰囲気を漂わせ、「彼らは持てる技術を尽くしてフォックストロットのリズムに身をゆだね、ジャズに痺れている」「二村の畳みこむよう焦燥感せまるヴォーカルは、豊かな官能を湛えたアレンジに包まれて語る以上の働きをする」「井田のアレンジは個々のプレーヤーのソロや絡みに気を配った日本人らしい細やかさが特徴である」と評されていました。
しかし当初の昭和の初めの録音では、かなりアップテンポではありますが、ほとんどスイング感のない、今、聞くと不思議な感じに聞こえます。もちろんフランク永井さんの歌声が一般的に知られたものです。
作曲者の略歴
佐々 紅華(さっさ こうか、1886年7月15日 – 1961年1月18日)は、日本の作曲家です。本名は佐々 一郎(さっさ いちろう)。作詞も行なった作品があり、歌劇の台本も書き、グラフィックデザイナーでもありました。
1886年(明治19年)7月15日、東京府東京市下谷区根岸(現在の東京都台東区根岸)に生まれています。紅華が4歳の時、一家で横浜市に転居、旧制・横浜小学校(1946年統合廃校)、旧制・神奈川第一中学校(現在の神奈川県立希望ヶ丘高等学校)を経て、浅草区蔵前にあった旧制・東京高等工業学校(現在の東京工業大学)工業図案科に進学しました。同校の工業図案科は、1914年(大正3年)に廃止され、空白期ののち1921年(大正10年)に創立された東京高等工芸学校を経て、現在の千葉大学工学部デザイン学科に引き継がれた学科です。
小学校時代からの音楽好きが嵩じてはじめは東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)を受験したが、試験には受かったものの父親の意見で高工に行ったのだといいます。
高工を卒業すると東京市内の印刷会社に就職、音楽への思いを断ち切れずにいたが、次に務めた日本蓄音器商会(ニッポノホン、現在の日本コロンビア)では図案室に入り、当時ビクターの商標であった、犬が蓄音器に耳を傾ける図案(ニッパー)に対抗し、耳に手をかざして蓄音器に聞き入る大仏のマークを作成、当時「大仏はそんなに耳が遠いのか」との評判が立ったといいます。これは日本蓄音器商会の商標となりました。またレコードのポスター等のグラフィックデザイナーとしても頭角を現していきました。
音楽の面では、当時の雑誌の記事などを見ると、日本蓄音器商会の事務所を覗くと、ひたすら洋楽のレコードを聞きながら五線紙に写取る、紅華の姿が見て取れたといいますから、本当に好きだったのでしょう。
その後、童謡を作って山の手のおうちに蓄音機をウランとしたり、浅草オペラの勃興期にオペラを作ったりしますが、関東大震災から6年ほどたった時、1929年(昭和4年)に日本ビクターに入社し、この曲を作り大ヒットします。
その後、佐々紅華さんが亡くなった年に、フランク永井さんが歌ってリバイバルしました。享年74歳。埼玉県寄居町の自宅で亡くなったそうです。昭和36年の1月のことです。