『コッペリア』(Coppélia)は、動く人形を題材としたバレエ作品、およびその人形の名前をいいます。音楽はレオ・ドリーブ(1836年2月21日 – 1891年1月16日)、振り付けはアルテュール・サン・レオン。原題は『コッペリア、あるいは琺瑯質(エナメル)の目をもつ乙女』(Coppélia, ou la Fille aux yeux d’émail)です。
パリ・オペラ座で1870年5月25日に初演され、主役スワニルダ役は当時16歳のジュゼッピーナ・ボツァッキ、フランツ役は美人バレリーナとして有名だったウジェニー・フィオクルが男装して演じました。
もともとE.T.A.ホフマンの物語『砂男』にヒントを得たもので、台本はサン・レオン自身とシャルル・ニュイッテルの手によるものです。
『砂男』は人形に恋した男の狂気性を前面に押し出した物語ですが、『コッペリア』はその狂気性を抑え、陽気で明るい喜劇として再構成されています。
第1幕 場所はポーランドの農村。
人形作り職人のコッペリウスは陰気で気難しく、村人から変人扱いされていました。彼の家の二階のベランダでは、コッペリウスが作ったからくり人形の少女、コッペリア(名前が制作者のコッペリウスと似ています)が座って本を読んでいます。しかし、村人はコッペリアが人形であることを知りませんでした。
コッペリウスの向かいに住むスワニルダは明るく無邪気な人気者の少女。村の青年フランツとは恋人同士でした。しかし最近フランツは、かわいらしいコッペリア(実は人形)が気になる様子。それに気づいたスワニルダはやきもちを焼いてしまいます。これがきっかけで二人は喧嘩します。
ある時コッペリウス(人形の製作者)は町に出かけようとしますが、家の前に鍵を落としていきます。それに気づいたスワニルダと友人たちは、好奇心からコッペリウスの家に侵入するのでした。
第2幕
コッペリウスの家。
薄暗い室内にはさまざまな人形たちが所狭しと並べられています。スワニルダと友人たちは室内を探索し、コッペリアもまた人形だったと気づきます。折悪しく戻ってきたコッペリウスに怒鳴られて友人たちは逃げ去ってゆきますが、スワニルダのみコッペリウスに気がつかれることなく室内に身を隠します。
そこへ知らずにフランツも、コッペリア(実は人形)会いたさのために梯子伝いに窓から忍び込んできて、フランツもコッペリウス(このうちの主)に見つかってしまいます。
コッペリウスは当然怒りますが、一計を案じてフランツに眠り薬を混ぜたワインを飲ませ、酔っ払った彼から命を抜いて自信作の人形、コッペリア(人形)に吹き込もうとします。
その一部始終を見ていたスワニルダは、コッペリア(人形)になりすまして、コッペリウス(人形を作った本人)を散々からかい悪戯の限りをつくしました。この大騒ぎにフランツも目を覚まし、コッペリアの正体を悟ってスワニルダと仲直りすることになります。
第3幕
村の祭りの日。
仲直りしたフランツとスワニルダは、めでたく結婚の日を迎え、賑やかな祝宴が始まりました。
そこへ人形を壊されてカンカンに怒ったコッペリウスが怒鳴り込んできますが、二人の謝罪と村長のとりなしによって彼も機嫌を直して、二人を祝福しました。
祝宴も本番となり「時」「曙」「祈り」「仕事」「結婚」「戦い」「平和」と踊りが続き、最後は登場人物全員によるギャロップによるフィナーレを迎えます。
(演出によっては、バーミンガム・ロイヤル・バレエ団が上演しているピーター・ライト版のように最後にコッペリアが本当に人間になるものや、ローラン・プティ演出版のように、祝宴の賑わいをよそに一人呆然と立ちつくすコッペリウスの足許には、ばらばらに壊れたコッペリアだけが残されて、そのまま幕が下りる版などもあります)
この曲の作曲者クレマン・フィリベール・レオ・ドリーブ(Clément Philibert Léo Delibes, 1836年2月21日 – 1891年1月16日)は、バレエ音楽や歌劇で知られるフランス・ロマン派の作曲家です。「フランス・バレエ音楽の父」と呼ばれています。迫力や壮大などといった言葉とは無縁の、優美で繊細な舞台音楽を残しています。
1836年、フランスの現在のサルト県に位置するサン・ジェルマン・デュ・ヴァル(Saint-Germain-du-Val)に生まれました。彼の父は郵便配達人で、彼の母親は、才能のあるアマチュア音楽家でした。また、彼の祖父はオペラ歌手でもありました。
彼は、彼の父が1847年に死亡してからは、母親と叔父の手によって育てられます。1871年、35歳の折、彼はLéontine Estelle Denainと結婚しました。彼の兄弟であるMichel Delibesは、スペインに移住しましたが、スペインの作家ミゲル・デリーベスの祖父にあたります。
パリ国立高等音楽・舞踊学校(パリ音楽院)でアドルフ・アダンに師事し、作曲を学びました。1853年には聖ピエール・ド・シャイヨ教会オルガン奏者を務める。1891年、パリで亡くなりました。