この曲を作曲したボンダジェフスカ(バダジェフスカ)は本格的な音楽教育は受けていなかったせいもあるのか、当時の権威的な音楽界ではあまり重きを置いてみられなかったようです。それが証拠に、生まれた年がはっきりしません。
ワルシャワから北北西に100km離れた町ムワヴァ(Mława)の生まれで、生年を1834年とする説と1838年とする説があるぐらいです。その後、成長してサロンでのピアノ演奏家として活躍し自ら作曲も行っていて、1856年、18歳あるいは22歳ごろの時に作曲した『乙女の祈り』がパリの音楽ニュース雑誌に掲載され、その名が広く知られるようになりました。
この曲を作曲したのち、結婚し5人の子供をもうけたとされています。しかし、乙女の祈りを作曲して、すぐに結婚したとすると、毎年出産するほどでないとこんなに子供を作れません。子供が幼くしてなくなるという当時の状況があったにせよ、ちょっとね・・・という感じ。
彼女はこの曲を含め小品を35曲ほど作曲しましたが、1861年に病弱のためにワルシャワにてなくなります。彼女に関する作品や資料については第二次世界大戦等により大半が消失したため、現在では『乙女の祈り』以外はほとんど知られていません。また、これは「祈り」という言葉が、共産圏の影響下にあったポーランドで不適切とみなされたため、特に本国ポーランドでは認知度が低い状態です。