楽譜のご紹介
合唱曲は何か勇気付けられるというか、そんな強さを感じます。まるで、国歌のように聞こえます。合唱部分の短いところだけですが、上げました。
私の直感というか、そんなものはたいしたものではないと思いましたが、どうもイタリアの第2国歌だということも言われているようです。
この「行け、我が想いよ」は今日のイタリア国民にとって「第二の国歌」的位置付けにあるのは間違いないそうです。実際に正規の国歌とする提案も数度にわたって行われたともいいます。なおイタリアでは、正統の国歌はイタリア政体の変遷に伴い「王室行進曲」から「マメーリの賛歌」に移り、その間ファシスト党の党歌「ジョヴィネッツァ」が国歌同然の位置付けで歌われる時代もありました。
1901年1月27日ヴェルディが87歳で長逝した際、彼の遺志により葬儀では一切の音楽演奏が禁じられたが、それでもその棺が運ばれる早朝、ミラノの沿道に参集した群衆は自然とこの「行け、我が想いよ」を歌ったといいます。
その1か月後、彼と妻ジュゼッピーナの遺骸が彼らの建てた音楽家のための養老院「憩いの家」Casa di Riposoに改葬される際には、800人の合唱隊および30万人にも及ぶ群衆が改めて「行け、我が想いよ」を歌ってこの偉大な作曲家夫妻を偲んだ(一般群衆の25,000人あるいは30,000人が唱和したともいうが、イタリアにおけるこの種の伝説は常に割り引いて考える必要がある)ということです。指揮をとったのは若き日のアルトゥーロ・トスカニーニでした。それほど、イタリアの人に慕われていたということですので、イタリアの第2国歌ということになるのだと思います。
そのそもそもの始まりです。 初演時のミラノ・スカラ座の聴衆は、このナンバー、とりわけ”Oh, mia patria sì bella e perduta!”(おお、あんなにも美しく、そして失われた我が故郷!)の部分に、オーストリアに支配された自らの運命(イタリア独立戦争)を重ね合わせました。突発的に発生したこの詞曲への共感は熱烈なアンコールの要求となったのです。
劇場に居合わせたオーストリア官憲もこの歌詞の意味するところを理解していましたが、聴衆の暴動を恐れアンコールは許可されたということです。やがて、このオペラはイタリア半島全土で再演され、そこでは常に、「行け、我が想いよ」への熱烈な反応が再現されました。このへんにも、この曲がイタリアの第2国歌とされている理由だろうと思います。
合唱する曲には、何かパッションを感じます。同じ感じは、合唱曲ではないですが、ショスタコービッチのワルツ第2番の演奏をアンドレ・リュウ楽団が演奏して、聴衆が歌い始めるときにも感じます。一時、テレビ番組の冒頭で使われていた曲です。