1874年11月から1875年2月にかけて作曲されました。ピアノ協奏曲第1番変ロ短調 作品23は、ピョートル・チャイコフスキーが、友人のモスクワ音楽院院長のニコライ・ルビンシテインに刺激を受け、初めて作曲したピアノ協奏曲です。
チャイコフスキーは当初ニコライ・ルビンシテインを初演者と目し、彼に献呈しようと考え、1874年のクリスマスにこの作品の草稿の段階でルビンシテインともう2人の楽友に聞かせたところ、ルビンシテインから思いがけず「この作品は陳腐で不細工であり、役に立たない代物であり、貧弱な作品で演奏不可能であるので、私の意見に従って根本的に書き直すのが望ましい」と激しく非難されました。
チャイコフスキーは友人であるルビンシテインの言葉に従わず、この非難の後、セルゲイ・タネーエフへの献呈を目して作曲を進め、オーケストレーションが完成した後で、ドイツ人ピアニスト・指揮者のハンス・フォン・ビューローへ献呈しました。ビューローはこの作品を「独創的で高貴」と評したのです。
また、第二次世界大戦後のアメリカ合衆国ではこの作品の演奏頻度が急増したと伝えられますが、その要因としてはトスカニーニとホロヴィッツが共演した名盤や、第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝したヴァン・クライバーン(アメリカ人)の存在が挙げられます。
クライバーンの優勝は、当時冷戦で対立していたソ連でのアメリカ人の快挙として、凱旋した際にはクラシックの音楽家としては空前の大フィーバーが起こっています。クライバーンの『ピアノ協奏曲第1番』は、ビルボードのポップアルバムチャートで1位(7週連続)を獲得した唯一のクラシック作品であるという事実からも当時の人気ぶりが伺えます。また、同曲はキャッシュボックスのポップアルバムチャートでも最高2位を記録しました。