どうもピアノなどになじみがないせいか、この曲名を探すのに少し時間がかかってしまって、上げられませんでした。
勘でバッハということで探したのですが、なぜだか、違うバッハにぶち当たってしまって、バッハ違いなのかと思ったら、奥さんだった。まあ、知っている人にとっては常識の範囲で、何を言っているんだということでしょうけど、ブログをはじめて、少し利口になっています。それで、あえて書いときますと、アンナ・マクダレーナ・バッハというのがその奥さんの名前で、バッハの亡くなった奥さんの後妻ということで、結構バッハを手伝ったのだということです。そして、この人の名前を冠した音楽帳があって、その音楽帳から題名をとっているということらしいです。Anhとあるのは、それを表しているとのことです。
曲の由来
アンナ・マクダレーナ・バッハの音楽帳からの曲です。
アンナ・マクダレーナ・バッハは、ザクセン=ヴァイセンフェルス公の宮廷トランペット奏者、ヨハン・カスパール・ヴィルケの7人きょうだいの末子(姉5人、兄1人)としてツァイツに生れました。母マルガレータ・エリーザベトは、オルガニストの娘でした。
1720年には、アンハルト=ケーテン侯レオポルトの宮廷ソプラノ歌手としてケーテンでは有名でした。同地で1717年より宮廷楽長を務めるヨハン・ゼバスティアン・バッハと知り合いとなりますが、ヴィルケ家とバッハ家は、音楽家同士として早くから交流があった可能性が高いといわれています。1721年12月3日にバッハと結婚しました。バッハは前の年に先妻のマリア・バルバラを亡くしており、アンナと再婚した時には4人の子供を抱えていました。
バッハとの間に、1723年から1742年までおよそ20年にわたって13人の子をなしましたが、そのうち7人は早世しています。生き延びた子のうち、作曲家として名をあげたのが、ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハとヨハン・クリスティアン・バッハでした。
バッハとは16歳の年齢差がありましたが、共通する音楽への関心によって結ばれ(1730年にバッハが友人に送った手紙には「今の私の妻はなかなかよい澄んだソプラノを歌うゆえに」と綴っている)、幸せな家庭生活を送ったとされており、しばしばバッハの浄書稿や筆写譜の作成に協力していました。このためアンナの筆跡は、時を経るにつれて、次第に夫に似るようになったと言われています。
バッハの死後1750年には、成人した息子たちはそれぞれ独立しており(未成年のクリスチャンは裕福な次男カール・フィリップに引き取られた)、アンナは2人の未婚の娘と同居を続けました。娘たちはアンナに尽くしたが、自立した息子たちから経済的に援助を受けていたという形跡は見られず、寡婦や未婚の女性たちと同じく、当時の慣習に従ってライプツィヒ市当局やライプツィヒ大学からの支援、臨時の寄付等により慎ましく余生を送ったようです。
アンナ・マクダレーナ・バッハの音楽帳は2番目の妻アンナに捧げられていることからこのタイトルがついていて、ほとんどがバッハの子供たちの教育用に書かれた曲です。