『展覧会の絵』はムソルグスキーが、友人であったヴィクトル・ハルトマン(ガルトマンとも)の遺作展を歩きながら、そこで見た10枚の絵の印象を音楽に仕立てたものです。ロシアにとどまらずフランス、ローマ、ポーランドなどさまざまな国の風物が描かれています。
また、これらの10枚の絵がただ無秩序に並ぶのではなく、「プロムナード」という短い前奏曲あるいは間奏曲が5回繰り返して挿入されるのが特徴的で、この「プロムナード」は展覧会の巡回者、すなわちムソルグスキー自身の歩く姿を表現しているといわれています。
「プロムナード」、「古城」、「卵の殻をつけた雛の踊り」、「ビドロ」、「鶏の足の上に建つ小屋 – バーバ・ヤガー」、「キエフの大門」など覚えやすいメロディーと緩急自在の構成(ユーモラスな曲、優雅な曲、おどろおどろしい曲、重々しい曲など)から、ムソルグスキーの作品の中でももっとも知られた作品の一つです。
この曲の由来
1870年ころ、ムソルグスキーはヴィクトル・ハルトマンという建築家であり画家でもある男と出会い、交友を結びます。しかし1873年8月4日、ハルトマンは動脈瘤が原因で急死してしまうのでした。
ムソルグスキーの落胆ぶりは大きく、残された手紙などによると、ハルトマンの体の異常に気づきながら友人としてなすべきことをしていなかったのではないかと、自責の念にかられている様子がわかります。
一方、スターソフ(ロシアの芸術史研究家であり評論家で、ムソルグスキーにも影響を与えた人物)はハルトマンの遺作展を開くことにしました。ハルトマンの作品を整理することと、ハルトマン未亡人のための資金援助が目的であったと思われます。遺作展は、1874年の2月から3月にかけて、母校であったペテルブルク美術アカデミーにおいて400点の遺作を集めて大々的に開催されました。
その展覧会から半年後の1874年7月4日、ムソルグスキーは『展覧会の絵』を完成させました。同年6月24日付のスターソフへの手紙には、この曲について興奮気味に「アイディアが煮えたぎっていて紙に書く暇がない」「今間奏(プロムナード)とそれ以外に(曲集前半の)4曲を書いた」などと書かれており、その前に作曲していた歌曲の完成よりまだ10日程度しかたっていないことから、作業の遅いムソルグスキーにしては珍しく2 – 3週間足らずで一挙に作曲されたものと推測されます。
楽譜のほうは、プロムナードだけではなくて、いろいろなところを上げていきたいと思います。印象にのこるシーンの多い曲で、取り上げやすい曲だと思います。