この曲のできる経緯は、1838年、メンデルスゾーンがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者の地位にあった時、そのコンサート・マスターであったフェルディナント・ダヴィッドに送った手紙で、翌年の冬までにはホ短調の協奏曲を贈ると書きました。しかし、実際に翌年には完成せず、演奏上の技術的な助言をダヴィッドから得ながら作曲は進められました。その間、6年の期間が過ぎていたということになります。6年後にやっと完成を見た力作です。
作曲者の略歴
ヤーコプ・ルートヴィヒ・フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ(Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy, 1809年2月3日 – 1847年11月4日)、通称フェリックス・メンデルスゾーンは、ドイツロマン派の作曲家、指揮者、ピアニスト、オルガニスト。
哲学者モーゼスを祖父、作曲家ファニーを姉として生まれたメンデルスゾーンは、神童として幼少期から優れた音楽の才能を示したことで知られています。彼はバッハの音楽の復興、ライプツィヒ音楽院の設立など、19世紀の音楽界に極めて大きな影響を与えました。また、作曲家としてもヴァイオリン協奏曲や「夏の夜の夢」、「フィンガルの洞窟」、無言歌集など今日でも広く知られる数々の楽曲を生み出しています。
ユダヤ人の家系であったメンデルスゾーン家は言われなき迫害を受けることが多く、それはキリスト教への改宗後もほとんど変わりませんでした。そのような状況にも関わらずフェリックスの業績・影響力は極めて強く、終生ドイツ音楽界の重鎮として君臨し続けました。死後は再び反ユダヤ主義のあおりを受けて彼の音楽への貢献は過小評価されてきましたが、今日では再評価の機運が一層高まりを見せています。