ドヴォルザークは1892年、ニューヨークにあるナショナル・コンサーヴァトリー・オブ・ミュージック・オブ・アメリカ(ナショナル音楽院)の院長に招かれ、1895年4月までその職にありました。この3年間の在米中に、彼の後期の重要な作品が少なからず書かれています。作品95から106までです。
この作品は弦楽四重奏曲第12番『アメリカ』、チェロ協奏曲と並んで、ドヴォルザークのアメリカ時代を代表する作品です。ドヴォルザークのほかの作品と比べても際立って親しみやすさにあふれるこの作品は、旋律が歌に編曲されたり、BGMとしてよく用いられたりと、クラシック音楽有数の人気曲となっています。オーケストラの演奏会で最も頻繁に演奏されるレパートリーの一つでもあり、日本においてはベートーヴェンの交響曲第5番『運命』、シューベルトの交響曲第7(8)番『未完成』と並んで「3大交響曲」と呼ばれることもあります。
『新世界より』という副題は、新世界アメリカから故郷ボヘミアへ向けてのメッセージ、といった意味があります。全般的にはボヘミアの音楽の語法により、これをブラームスの作品の研究や第7・第8交響曲の作曲によって培われた西欧式の古典的交響曲のスタイルに昇華させているのです。
この曲は、アメリカの黒人の音楽が故郷ボヘミアの音楽に似ていることに刺激を受け、「新世界から」故郷ボヘミアへ向けて作られた作品だと言われています。
「アメリカの黒人やインディアンの民族音楽の旋律を多く主題に借りている」という風にいわれることがありましたが、これは誤解です。それはドヴォルザーク自身が友人の指揮者オスカル・ネドバルへの手紙に書いていることでも明らかです。その中で彼はこう言っています。“私がインディアンやアメリカの主題を使ったというのはナンセンスです。嘘です。私はただ、これらの国民的なアメリカの旋律の精神をもって書こうとしたのです”と。
1893年12月15日に楽譜が出版された。初演は1893年12月16日、ニューヨークのカーネギー・ホールにて、アントン・ザイドル指揮、ニューヨーク・フィルハーモニック協会管弦楽団による。初演は大成功だったと伝えられています。
日本初演は1920年12月29日、東京の帝国劇場において、山田耕筰指揮、日本楽劇協会によって行われました。
ここで取り上げている第4章の冒頭は、非常に東洋的なイメージのするこの出だしのところですが、少なくとも、北アメリカの地域の旺盛な活力というよりも、インカ帝国などのイメージのほうがぴったりとくるような感じがしますが、どのようなイメージを描きたかったのでしょう。(アメリカから故国へ送った音楽といわれています)
「アメリカ国民音楽」を作ろうとする大富豪のジャネット・サーバー夫人の声かけで、新設するニューヨーク・ナショナル音楽院の院長に招かれ、積極的にではないものの引き受けて、その半年後に作ったのが、この新世界ということであったそうです。それが、50代(ちなみに、64で亡くなっています)のことでした。40代のころにはイギリスに何度も招かれて、演奏活動をしたということも、呼ばれた遠因になっているのかもしれません。また、プラハ出身ということも、このオリエンタルな曲の調子に何らかの影響があったのかもしれません。あくまで、想像です。
ドボルザークの同時代人というと、チャイコフスキーが代表的な音楽家で、両者はドボルザークの住んでいるプラハで、初めて会うということだったようで、その後、ドボルザークがモスクワを訪れました。その後すぐに、アメリカに招かれて、新設するニューヨーク・ナショナル音楽院の院長につきます。この曲は、その当時の作品です。