フルート嫌いのモーツァルト
実はモーツァルトはフルート(の音色)が嫌いで、1778年2月14日付の父宛ての手紙の中で「我慢できない楽器のための作曲をずっと続けなければならないと、お分かりのように、僕はうんざりしてしまうんです。」と書いています。真相はわかりませんが、当時のフルートはまだベームによる改良以前で音程が不安定だったため、あるいはアロイジア・ウェーバー(後に妻となるコンスタンツェの姉で、作曲家ウェーバーの従姉)への恋の悩みのために予定した量の作曲が出来なかったことの言い訳だったとする説もあります。
モーツァルトが20歳ぐらいの時に作った曲だそうで、お金がほしくて、安い金で、頼まれて作ったそうです。なんとなくまとまりがあるようでないようで、素人的には、ちょっと長くて…という感じですが…。この曲はこの楽譜の4倍ぐらいの長さがあります。
曲の由来
1777年9月、21歳のモーツァルトは職探しの目的でパリへの旅行に行きます。その途中、長期間滞在したマンハイムには、当時のヨーロッパで有数の宮廷オーケストラがありました。モーツァルトはこのオーケストラへの就職を希望しましたが、成功するには至らなかった。
しかしモーツァルトは、このオーケストラの名フルート奏者ヨハン・バプティスト・ヴェンドリングという人物と親交を結ぶが、ヴェンドリングは、オランダの裕福な商人フェルディナント・ドゥジャン(ド・ジャンとも)をモーツァルトに紹介します。音楽愛好家で、自身もフルートを吹くというドゥジャンは、モーツァルトに200フローリンで「小さくて軽く短い協奏曲を3曲と四重奏曲を何曲か、フルートのために作って」くれるように注文しました。
少しでも収入が欲しかったモーツァルトはこれに応じ、結局出来上がったのはフルート協奏曲第1番、第2番(後者は旧作のオーボエ協奏曲の編曲)と3曲のフルート四重奏曲でした。しかし約束が違うというわけで、報酬は当初の話の半分以下の96フローリンにされてしまった。