作曲したヘンリー・パーセルは名前からわかるようにイギリス人です。活躍したのは17世紀の中頃で、35歳の若さで逝ってしまいます(というかそのころの平均寿命からするとちょっとだけ早いという感じかもしれません)。この時代の唯一の有名なイギリスの作曲家です。当時はイタリアを中心として、ドイツ人の作曲家がいるぐらいで非常に珍しい存在だったようです。
パーセルは、イングランド共和国のウェストミンスターに生まれました。少年期については資料が残されていないため、はっきりしませんが、1667年前後(おそらく9歳か10歳の頃)に王室礼拝堂に付属する少年聖歌隊の一員となり、聖歌隊長のヘンリー・クック(Henry Cooke)とペラム・ハンフリー(Pelham Humfrey)から音楽の指導を受けたといいます。そこでは自国の作曲家の作品を学び、またハンフリーのフランスとイタリアから影響を受けた音楽様式にパーセルは影響をうけたということです。
1673年に15歳で変声期を迎えたため聖歌隊を退いて、同年6月に王室の楽器管理を担当していたジョン・ヒングストン(John Hingeston)の助手として1年間ほど務めました。翌1674年にはウェストミンスター寺院のオルガン調律師に任じられ、同時にオルガニストとして務めていたジョン・ブロウに師事しています。また写譜係をしながら、ウィリアム・バード、オーランド・ギボンズ、トマス・タリスなどの作曲家たちの作品の研究して、古い音楽の伝統を身に着けていました。なお作曲はこの頃からしていたとされますが、初期の作品はほとんど紛失しています(ごくわずかに残されている歌曲とアンセムはこの時期のもの)。
1677年にマシュー・ロックが没し、わずか18歳のパーセルは彼の後任として王室の弦楽合奏隊の専属作曲家(兼指揮者)に就任します。この弦楽合奏隊はチャールズ2世が、フランスのルイ14世の「24のヴァイオリン(ヴァンカトル・ヴィオロン)」に倣って1660年の王政復古の後に宮廷に設置したもので、音楽を好んでいたチャールズ2世がパーセルの才能を見抜いて抜擢したとされています。1679年にはブロウの後任としてウェストミンスター寺院のオルガニストに任命され、年俸とともに家も貸与されるなど、音楽家としてのキャリアを本格的に始めた時期でもありました。
1680年、ロンドンに帰還したチャールズ2世のための祝賀音楽をはじめとする一連の歓迎歌やオードを作曲し、また同時に祝祭音楽や劇場で上演されるための付随音楽、宗教曲を含む合唱曲などの作曲を通して名声を高め、付随音楽『テオドシウス』(Theodosius,Z.626)などの最初の大作が生まれたのもこの時期でした。1682年、王室付属礼拝堂の3人のオルガン奏者の一人に選ばれ、1683年1月にはヒングストンの死に伴い後任として王室の楽器管理職に就任するなど要職を兼務し、彼の名声はさらに高まっていき、多忙ながらも充実な生活を送っていました。この年に出版された作品には、12曲からなる「ファンタジア」と題されたヴィオールのためのトリオ・ソナタや鍵盤楽曲(主にハープシコード)『音楽のはしため』などがあります。
1689年、バロック期のオペラの最高傑作のとして位置づけられるオペラ『ディドとエネアス』(Dido and Aeneas,Z.626)が12月にロンドンにて初演され、限られた手法で劇的な効果を上げたものにしています。1690年以降は一連の舞台作品(主にオペラと付随音楽)の創作に力を注ぎ、オペラ『アーサー王』(1691年)、『妖精の女王』(1695年)、ここで取り上げた『アブデラザール』(1695年)など40曲以上を手がけています。
1695年11月21日、36歳の若さでこの世を去ります。師のブロウはその死を悼んで『ヘンリー・パーセルの死に寄せる頌歌』を作曲し、パーセルが務めていた宮廷の楽器管理の後を継いでいます。彼の亡骸は職場であったウェストミンスター寺院に眠っています。
なお、ロンドというのは、一つの音楽形式で、フランス語です。多くの踊り手がまるい輪をつくって踊ること。そのための舞踏歌。回旋曲。輪舞曲。・・とあります。つまり、昔のダンス音楽の一つの形式と言えます。スイングジャズがほぼ、ダンスとともに発展したように思えば、人間の営みはかくも変わらないものかと思うものです。