曲の由来
『王宮の花火の音楽』(おうきゅうのはなびのおんがく、英語: Music for the Royal Fireworks)は、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルが作曲した組曲。HWV351。
1748年にオーストリア継承戦争終結のために開かれたアーヘンの和議を祝う祝典のための曲。祝典自体はロンドン・グリーンパークで1749年に催されました。
それでは、オーストリア継承戦争とは何かというと、こんな感じ。
神聖ローマ皇帝カール6世は男子に恵まれず、長年後継者に悩んでいました。そこで娘のマリア・テレジアにハプスブルク家領(オーストリア)を継がせるため、女子の相続を認める国事詔書を発布し、いくらかの譲歩を行ってフランスなど欧州主要国にこの詔書を認めさせました。
またハプスブルク家は伝統的に神聖ローマ皇帝を世襲してきたが、女子は帝位に就けないので、マリア・テレジアの夫トスカーナ大公(元ロレーヌ公)フランツ・シュテファンの即位を要求しました。
しかしルイ15世のフランス宮廷は、ハプスブルク勢力を弱体化させる絶好の機会として背後で画策し、攻撃を仕掛けたのです。これがオーストリアと周辺諸国の間での戦争に発展しました。
主にオーストリアを支援したのは、フランスと対立するグレートブリテン王国(イギリス)とネーデルラント連邦共和国(オランダ)でした。後にザクセンとサルデーニャもオーストリアの側で参戦しました。
これと敵対する側に立ったのはプロイセン、フランス、スペイン、バイエルンでした。ここに8年間に及ぶ戦乱が起こります。
一連の戦争は1748年のアーヘンの和約(エクス・ラ・シャペル条約)によって終結しました。オーストリアはシュレージエンと北イタリアのパルマ公国など一部の領地を奪われましたが、上オーストリア、ベーメン、オーストリア領ネーデルラント、ミラノなどはすべて奪い返してハプスブルク領の一体性を保持し、神聖ローマ皇帝位も確保したのでした。
相当な外交的、軍事的、財政的努力を費やしてオーストリアの弱体化を図ったフランスの企ては見事に失敗し、英国との植民地戦争も中途半端に終わってしまいました。
プロイセンのフリードリヒ2世のみがシェレージエンをオーストリアから奪い、数々の戦闘で軍事的才能を発揮し、「大王」と謳われることになります。
このアーヘンの和約に際して演奏するために、イギリスのジョージ2世の意向を受けて作曲したのが、この曲です。
ヘンデルといって、思い出すのが、音楽室の肖像画ですが、このヘンデルとバッハの少し似た感じなのが、どうもややこしくて、より機嫌が悪いのがバッハという感じで覚えていました。そして、この2人は、同い年で、生まれた場所も非常に近くだったそうです。後年、2人は合うことにしますが、直前に都合が悪くなって、結局、合わずじまいだったそうです。
どうもあのかつらをかぶった様子から、日本の平安時代を連想させ相当古く感じますが、意外と近世であり、活躍した時代は江戸時代中期以降になります。吉宗から家重あたりの時代です。