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【無料楽譜】ショパン作曲「ポロネーズ第6番変イ長調」Chopin Polonaise No.6 in A-flat major “Heroic” Op.53

クラシック曲集

 音楽形式のポロネーズには、長い伝統があり、起源はポーランドの大衆的な舞踊で、歌を伴い、結婚式など格式のある祝祭で行なわれました。これが徐々に騎士や下級貴族のものとなって洗練され、やがて王侯の宮廷に取り入れられると、歌が無くなって器楽伴奏のみの行列舞踊となります。

 行列舞踊とは、整然と列を成して比較的ゆっくりと歩くようなタイプのもので、参会者の顔合わせや挨拶、あるいは衣装の見せあいなどの機能を果たします。宮廷舞踊となったポロネーズは、ポーランドの代表的な舞踊として国際的に認められたのみならず、ポーランドの民族精神を表現するもっとも象徴的な音楽となったという経緯があります。

 しかし、「ポロネーズ」という名称は、フランス語で「ポーランド風の」という意味であり、バッハが《フランス組曲 第6番》に取り入れた頃にはもはや舞踊の伴奏としての機能は失われ、ポーランド趣味、一種の異国情緒を感じさせる形式へと姿を整えていくことになります。

 19世紀初頭にショパンが継承したポロネーズとはこのように、郷土の伝統というよりは国際的音楽形式あるいはジャンルのひとつとしてのポロネーズです。しかし、1830年以降のパリにおいてショパンがポロネーズを書く、ということには、また別の意味がありました。このときポーランドは地図上から消えた国家であり、パリには亡命したポーランドの文化人たちが終結していたからです。聴衆はショパンの音楽の本質に「ポーランドらしさ」を求めたし、ショパンもまた、憂国の士としてこれに応えようとしたという経緯があります。

 この曲はちょうど2月革命がフランスで起こる6年前の1942年できた曲です。そこで、ショパン自身の意図とは別に『英雄ポロネーズ』という副題がついたといいます。では、フランスの二月革命とは何か。

 1848年2月22日から24日にかけて、パリを中心とする民衆運動と、議会内の反対派の運動によって、ルイ・フィリップの王政が倒れ、共和政が成立した革命をさします。この革命は単にフランスのみならず、オーストリア、プロイセン、イタリアなど西ヨーロッパの諸民族にも大きな影響を与え、さまざまの政治的変動をヨーロッパに生み出したものとして記憶されています。

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 革命を勃発させた根本的な原因は、イギリス産業革命の波がフランスにも及んで鉄道建設や紡績業が導入され、旧来の手工業と農業中心の社会が変わり始めた結果です。

 市場向けの生産、取引や交換が活発化すると、貧困と失業が増え、社会に不安と動揺をもたらします。18世紀の末、60万人であったパリの人口は、100万人を超え、下町は貧しい人々であふれたのです。工業化と都市化が生み出した矛盾は、顕在化して、社会主義や過激思想となって表現されていきます。

 二月革命の直接の引き金は、1845年から46年にかけての農作物の不作でした。凶作による食料品の値上り、それによる労働者の窮乏、さらに農村の購買力の減少などが、やがて工業製品の売れ行き不振となり、倒産や失業者の増加に結びついてゆきます。深刻な経済危機は、やがて政治的危機に発展しました。

 他方、選挙制度はあったものの、200フラン以上の納税者でなければ選挙権がなく、ルイ・フィリップ治下の議会では、不満がくすぶっていたのです。王党派のなかにも、選挙法の改革を主張する者が少なくありませんでした。野党議員たちは、公然たる反政府運動が抑えられていたので、「宴会」に名を借りて市民を結集し、改革運動の盛り上げを図りました。パリのみならず、地方都市にもこれが波及しパリを中心とする民衆運動と、議会内の反対派の運動によって、ルイ・フィリップの王政が倒れ、共和政が成立しました。

 ショパンは、この二月革命を見たのち、1年後に亡くなりました。この曲を英雄ポロネーズといわれることは本人の好むところではありませんでしたが、かつてショパンと深い関係を持ったフランスの女流作家ジョルジュ・サンドは、当時小規模な新聞を発行しており、誰が名付けたかは不明ということですが、一枚かんでいたかもしれません。以来、英雄ポロネーズと一般的に言われたそうです。

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