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【無料楽譜】ドリゴのセレナーデ(Drigo Serenade)

 この「愛のセレナーデ」は「ドリゴのセレナーデ」とも呼ばれ、ドリゴが作曲したバレエ「百万長者の道化師」の中の1曲です。「百万長者の道化師」はほとんど上演されませんが、この甘美な旋律のセレナーデは唯一有名になりました。

 この曲で思い出すのが、1970年代に出来立て早々の高田馬場『ビッグボックス』で、よく流れていたことです。はっきり記憶にないのですが、確かあれは、大磯ロングビーチの広告を大々的にそこでやっていて、そのBGM的な使われ方をしていたように思います。

 1970年代にトフラーという人が書いた『未来の衝撃』という本がベストセラーになりました。その中で、今では当たり前になっていますが、アドホクラシーという言葉が紹介されました。その時々の状況に応じて柔軟に対処する姿勢。または、そのような主義という意味なんだとかいうことですが、その具現化された形として、複合ビルという発想が出てきました。

 今は当たり前になったものですが、一つのビルに多数のテナントが入るという形態です。新宿にアドホックビルという名をつけたビルができたのを皮切りに、続々とできたのを覚えています。そのひとつとして華々しくデビューしたのが高田馬場の『ビッグボックス』でした。そのオープニング後によく流れていたのがこの曲でした。

 ビッグボックスも大磯ロングビーチもどちらも西武系の施設です。まだ、勢いがあった時代です。電車はまだ板張りの床でしたが…。そして、今、振り返ってみると、町にはいろいろな音楽が流れていました。ほとんど、暴力的にさえあるかのように、広告的に音楽が流れてきました。それが、ウォークマン以降、90年代ごろから徐々に街角から音楽が消えていったのではないかと思います。

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ドリゴの略歴

 リッカルド・エウジェニオ・ドリゴ(Riccardo Eugenio Drigo, 1846年6月30日 パドヴァ – 1930年10月1日 同地)は、イタリアのバレエ作曲家、指揮者。ロシア・サンクトペテルブルクの国立バレエ団(Imperial Ballet)のカペルマイスターおよび音楽監督としての長いキャリアで知られています。

 ドリゴはパドヴァで家族の友人Antonio Jorichに音楽を習った後、ヴェネツィアの音楽学校でアントニオ・ブッツォーラ(ガエターノ・ドニゼッティの教え子)に師事しました。彼はピアノ教師を務め、また故郷で作曲家・指揮者として成功を収めました。

 1878年にドリゴはロシアへ移住し、この地で40年以上を過ごすこととなりました。1879年、彼はサンクトペテルブルクでイタリア・オペラの指揮者に任命されます。

 1886年に彼はこの地位を辞して、国立バレエ団の指揮者・作曲家の地位に就きました。彼はロシアで最先端のダンサーや振付師たち(マリウス・プティパ、レフ・イワノフら)と共に活動しました。彼が最初に指揮したのはチャイコフスキーの『眠れる森の美女』と『くるみ割り人形』でした。

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 1899年、彼はプティパ振り付けのバレエ『海賊』(Le Corsaire, サンクトペテルブルク、1899年)第二幕の有名なパ・ド・ドゥの音楽を作曲しました。ドリゴ自身が作曲を行った作品もまた有名なものでした。1900年に初演されたバレエ『百万長者の道化師』(Les Millions d’Arlequin)は、国際的な名声を得ることとなりました。同曲の中のセレナードは特に有名になり、後にベニャミーノ・ジーリのためにE・A・マリオの詞を付けた歌曲としても発表しています。ここで紹介しているドリゴノセレナーデです。

 ドリゴは自主的に亡命のような状態に身を置いたものの、時折はイタリアを訪れ続けていました。最終的に1920年、彼はロシア革命後のロシアに身を置けなくなり、パドヴァへと戻ります。その後、地元の劇場のためのバレエ作品を数作作曲しています。1930年、故郷パドヴァにて逝去。84歳没。

1970年代には、トランペットの演奏でもラジオからよく流れてきた曲でもありました。

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演奏例

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