『ハンガリー舞曲集』(ハンガリーぶきょくしゅう、ドイツ語: Ungarische Tänze)WoO.1 は、ヨハネス・ブラームスがハンガリーのジプシー(ロマ)音楽に基づいて編曲した舞曲集。もとは四手用のピアノ曲として書かれました。全部で21曲あり、それぞれの長さは1分程度のものから4分程度のものまでとまちまちです。中でも、管弦楽用に他者によって再編曲された第5番がとりわけ有名です。
楽譜は第4曲となりますが、なにか、絵にかいたような切ない感じのメロディーから始まる曲です。どこかで聞いたことのあるというよりも、この曲を真似た曲がいっぱいあったというべきか、よくわかりませんが、ちょっとそのわざとらしさをふざけたくなる曲です。
曲の由来
ブラームスは1850年代の前半に、エドゥアルト・レメーニの伴奏者としてドイツの各地で演奏旅行を行い、その時にレメーニからジプシー音楽(ロマの民族音楽)を教えられて魅了されます。それ以来ブラームスは、それをハンガリーの民族舞曲と信じて採譜を続け、1867年に出版社のジムロックに最初の6曲を送って拒否されています。
結局それらを含む第1、2集が1869年に出版されると大好評となり、1880年に第3、4集が刊行されました。
『ハンガリー舞曲集』に作品番号は付いていません。これが自作ではなく、伝統音楽の編曲にすぎないことをブラームスが慮ってのことでした(とはいえ、第11曲、第14曲、第16曲の主題は、完全にブラームスの創作であったらしい)。
のちにレメーニは『ハンガリー舞曲集』の成功を知ると、これが盗作であるとしブラームスを相手に訴訟を起こしました。結果はブラームスが「作曲」ではなく「編曲」としておいたことが幸いして、ブラームスが勝訴しました。
ブラームスは自分の『ハンガリー舞曲集』の成功に自信を得て、アントニン・ドヴォルザークに『スラヴ舞曲集』を作曲して収益を得るように助言しています。もっともドヴォルザークは編曲ではなく、民族舞曲の性格と特徴を取り入れ、自作の主題によって曲集をまとめ上げています。なおドヴォルザークは、『ハンガリー舞曲 第4集』を管弦楽用に編曲しています。
1番と5番はすでに上げていますが、4番というのはなじみがなかったのですが、今回、上げることにしました。
ハンガリー舞曲のハンガリーとはどんな国?
ブラームスのハンガリー舞曲の1曲ですが、これだけしつこく題材とされるのは、ブラームスが生きていた時期のハンガリーとはいったいどんな国だったのか、そもそも、ハンガリー人というのはどんな顔をしてどんな言語でどんな民族なのかという疑問がわくようなそんなシリーズです。
そもそも、その疑問がやはり日本人的なのかもしれません。単一民族、単一言語の国の人間にはわからないことがいっぱいありそうです。
まずは、その前にドイツとオーストリアの間に起った歴史について、知らなければなりません。そして、ちょうどわかりやすい当時の歴史が、こちらの動画で見られます。