曲の由来
この曲は、チャイコフスキー最後の大作であり、その独創的な終楽章をはじめ、彼が切り開いた独自の境地が示され、19世紀後半の代表的交響曲のひとつとして高く評価されています。
副題『悲愴』については、弟モデストが初演の翌日に自身が「悲劇的」という表題を提案したが、作曲者はこれを否定し、次に弟が口にした「悲愴」という言葉に同意したと伝えていますが、これはモデスト(弟)の創作で事実ではないことがわかっています。
実際は自筆譜、楽譜の出版をしていたピョートル・ユルゲンソンがチャイコフスキーに送った手紙で「《第6悲愴交響曲》よりも《交響曲第6番 悲愴》とするべきだと思います」と書いているなど、少なくとも曲が完成した9月には作曲者自身がこの題名を命名していたことが分かっているのです。
また初演のプログラムに副題は掲載されていないが、チャイコフスキーがユルゲンソンに初演の2日後に送った手紙で「Simphonie Pathétique」という副題をつけて出版することを指示している事実もあります。
最高のできばえの曲
チャイコフスキーは26歳から52歳までの間に12回のうつ病期を経験したといいます。
『悲愴』作曲時には過去を思い浮かべたのか、それとも当時もうつ病を患っていたのか、うつ的な精神状態を曲に反映させているのではないかという説があります。ドイツの精神科医ミューレンダールは、精神病院の入院患者に対して各種の音楽を聞かせるという実験を行ないましたが、悲愴を流した場合、特に内因性うつ病患者の症状が悪化し、患者によっては自殺しようとしたといいます。
チャイコフスキー自身は、最終楽章にゆっくりとした楽章を置くなどの独創性を自ら讃え、初演後は周りの人々に「この曲は、私の全ての作品の中で最高の出来栄えだ」と語るほどの自信作だったといいます。
チャイコフスキー略歴
1970年のソ連映画で、チャイ コフスキーの伝記的な映画があり、70年代中盤くらいに見に行きました。全体的にとても、重苦しい感じのする映像で、その中で、映画を通じてピアノ協奏曲第1番の異常に響くピアノの余韻が、なにかチャイコフスキーの神経質な感じを醸し出しているように感じました。そんな内容を簡単に説明します。
少年時代、母が早世して繊細な神経の少年は深く傷つきますが、音楽には深い関心を抱き、長じて世界的ピアニストのニコライ・ルビンステインが学長を務める音楽院を卒業、教授となります。しかし、彼に献呈しようとした「ピアノ協奏曲第1番」が酷評されて落ち込み、更に続いて発表したバレー音楽「白鳥の湖」も演出の失敗で不評で落ち込みます。
しかし、大富豪の未亡人ナジェンダ・フォン・メック夫人は彼の価値を信じて、以後14年間に亘って経済的援助を続けます。2人は生涯一度も会うことはありませんでした。この間、チャイコフスキーは教え子のアントニーナと結婚しますが結婚は失敗して、入水自殺を図りますが危うく救われます。
ルビンステインはその後、彼の協奏曲を認め、パリでの演奏会にはチャイコフスキーも同行して演奏しますが、その直後、パリで客死してしまいます。
彼の作曲活動のためにメック夫人はモスクワ近郊の別荘を貸与しますが、夫人からパーティに招かれた際、黙って別荘を抜け出してしまいます。この辺のところが、映画ではかなり違和感のある感じで表現されていました。もちろん、彼の行動は夫人を失望させました。また、彼女の事業の行き詰まりもあって、1890年、彼への資金援助と交際の終焉を告げます。チャイコフスキーは交際の継続を求めますが、夫人は既に心を病んでいました。
1893年、彼は「交響曲第6番“悲愴”」を自ら指揮して発表しますが、その最終楽章は悲しみに溢れたものでした。そして初演から僅か8日後、チャイコフスキーはコレラで急逝します。当時のコレラはパンデミックとなって、19世紀を通して、断続的に世界的な流行となった病気です。
ちなみに、翌年、ロシア皇帝アレキサンドロス3世がなくなり、ロマノフ王朝最後の皇帝、ニコライ2世が即位します。