楽譜のご紹介
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≪蝶々夫人をどうして書いたのか≫
プッチーニは24歳の若さで最初のオペラを書き上げてから、35歳の時書き上げた3作目の「マノン・レスコー」で一躍脚光を浴びました。 その後「ラ・ボエーム」(1896年)、「トスカ」(1900年)と次々と傑作を生み出します。彼が「蝶々夫人」を書くのは、そんな音楽家として、正に脂の乗り切った時期でもありました。
「トスカ」を発表してから、次のオペラの題材をプッチーニは探していた。1900年「トスカ」が英国で初演されるときプッチーニはロンドンに招かれました。その時、デーヴィッド・ベラスコの戯曲「蝶々夫人」を観劇しました。英語で上演されていたため、詳しい内容はわかりませんでしたが、プッチーニは感動し、次の作品の題材に「蝶々夫人」を選んだのです。
≪日本についても勉強していた≫
同年にプッチーニはミラノに戻ると、『トスカ』の台本の執筆を手がけたイルリカとジャコーザに頼んで、最初から3人の協力で蝶々さんのオペラの制作が開始されました。翌年には難航していた作曲権の問題も片付き、本格的に制作に着手しはじめます。プッチーニは日本音楽の楽譜を調べたり、レコードを聞いたり、日本の風俗習慣や宗教的儀式に関する資料を集め、日本の雰囲気をもつ異色作の完成を目指して熱心に制作に励んだのです。当時の日本大使夫人の大山久子に再三会って日本の事情を聞き、民謡など日本の音楽を集めもしました。1902年にはプッチーニはパリ万国博覧会で渡欧していた川上貞奴に会ったとも云われています。
≪自動車事故を乗り越えた≫
1903年2月にプッチーニは自動車事故に遭って大腿部を骨折し、一時は身動きも出来ない重傷を負っています。春になると車椅子生活での作曲を余儀なくされました。しかしプッチーニは制作を精力的に進め、その年の12月27日についに脱稿しました。その年の内に楽譜は小説「蝶々夫人」も初版と同じセンチュリー出版社からヤーネル・アボットの挿絵入りの単行本として出版されました。原作者ロングはこの小説の戯曲化とオペラ化を大いに喜んで序文に「あの子が美しくかつ哀しい歌を歌って帰ってくる」と記しています。また翌1904年1月3日にはプッチーニはトッレ・デル・ラーゴで夫人エルヴィラと正式に結婚の儀式を行っています。