作曲者の略歴
この曲の作曲家のフランツ・レハール( Franz Lehár, 1870年 – 1948年)はオーストリア=ハンガリー帝国に生まれ、オーストリア、ドイツを中心にオペレッタの作曲により活躍した作曲家です。父も同名であることから、まれに「フランツ・レハール2世」と呼ばれることもあるそうです。
生まれはトーストリアですが、両親はドイツ人です。ハンガリーのコマーロムに生まれたのも、両親がそえぞれ、父はスロヴァキアの植民者だったり、母はハンガリーの植民者で、ハンガリーにおいて父フランツは軍楽隊長として帝国内の転勤して回ったそうです。そして、本人は長じて、プラハ音楽院でドヴォルザークらに学び、軍楽隊長を経てウィーンでオペレッタ作曲家としてデビュー。「銀の時代」とよばれたオペレッタの第二黄金期を代表する作曲家となります。1905年、『メリー・ウィドウ』で一躍人気作曲家となりました。
作曲者に降りかかった不幸
この曲(1902年)とは直接関係ありませんが、この曲ができてからそうとうあとから、ナチスの影がヨーロッパを覆います。
ちょうど作曲家のレハールが住んでいたところがオーストリアで、その後ナチスドイツに併合(1938年)されます。さらに、もう晩年になっているのですが、レハールの妻がユダヤ人であるということが、問題だったわけですが、何とか不問に付されていました。
理由は、ヒトラーがレハールの『メリー・ウィドー』が好きだったからだといわれていて、事実、レハールはスコアーをヒトラーに贈っているのだそうです。
しかし、いいことだけではありません。
作曲の関係で知り合っている人物に、ユダヤ人がいて、レハールを頼りに収容所送りになることがないように働きかけます。しかし、レハールがその願いを行動に移すことで、かえってその本人は収容所送りになるというとてもショッキングなことが起こるのです。
そして、戦争が終わって、ヒトラーと知り合いであったことなどから、批判の的になるなど、悲しい運命となります。1948年、オーストリアの地で亡くなっています。
≪なんで、金と銀なの?≫
レハールのワルツには『メリー・ウィドウ・ワルツ』や『ルクセンブルク・ワルツ』など自作のオペレッタから編曲されたものが多いのですが、この『金と銀』はそれらとはちがい、独立した管弦楽用ワルツとして誕生しています。
この曲は、1902年の謝肉祭の間に催されたパウリーネ・メッテルニヒ侯爵夫人主催の舞踏会のために作曲されています。題名の「金と銀」とは、この舞踏会の課題名で、会場は銀色に照らされ、天井には金色の星が煌き、壁一面に金銀の飾りが付けられ、参加者も金銀に彩られた思い思いの装飾を纏っていたと伝えられています。今日では代表的なウィンナ・ワルツとして、ヨハン・シュトラウス2世などの作品とともによく演奏されます。