曲の由来
『蝶々夫人』(ちょうちょうふじん、Madama Butterfly, マダマ・バタフライ)とは、プッチーニによって作曲された2幕もののオペラです。いわゆるプッチーニの「ご当地三部作」(あとの2作は「西部の娘」、「トゥーランドット」)の最初の作品です。
長崎を舞台に、没落藩士令嬢の蝶々さんとアメリカ海軍士官ピンカートンとの恋愛の悲劇を描いています。物語は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアの弁護士ジョン・ルーサー・ロングが1898年にアメリカのセンチュリー・マガジン1月号に発表した短編小説(Madame Butterfly)」を原作にアメリカの劇作家デーヴィッド・ベラスコが制作した戯曲を歌劇台本化したものです。
1904年2月17日、ミラノのスカラ座で初演されたそれは大失敗だったが、同年5月28日ブレシアで上演された改訂版の成功以来、標準的なレパートリー作品となっています。
色彩的な管弦楽と旋律豊かな声楽部が調和した名作で、日本が舞台ということもあり、プッチーニの作品の中では特に日本人になじみ易い作品です。特に第2幕のアリア「ある晴れた日に」は非常に有名です。
反面蝶々役の歌手にとっては終始出ずっぱり・歌のパートも長く多い(第二主役であるピンカートンの数倍に及ぶ)ため、また若く愛らしい娘の役であるにも拘らず、プッチーニのソプラノ諸役の中でも特にテッシトゥーラ(主な音域)が低く、中低音域に重点を置いた歌唱が求められるため「ソプラノ殺し」の作品とも言われています。
蝶々夫人というと、オペラですが、蝶々さんはいつも変な着物を着ているというイメージがあります。丹前みたいな着物で、寝起きを襲われたような着付けで、何かのパロディーにしか見えません。最近は日本の方が蝶々さん役をやることもあり、少しはましになったかもしれませんが・・・。
≪蝶々夫人をどうして書いたのか≫
プッチーニは24歳の若さで最初のオペラを書き上げてから、35歳の時書き上げた3作目の「マノン・レスコー」で一躍脚光を浴びました。 その後「ラ・ボエーム」(1896年)、「トスカ」(1900年)と次々と傑作を生み出します。彼が「蝶々夫人」を書くのは、そんな音楽家として、正に脂の乗り切った時期でもありました。
「トスカ」を発表してから、次のオペラの題材をプッチーニは探していました。1900年「トスカ」が英国で初演されるときプッチーニはロンドンに招かれました。その時、デーヴィッド・ベラスコの戯曲「蝶々夫人」を観劇しました。英語で上演されていたため、詳しい内容はわかりませんでしたが、プッチーニは感動し、次の作品の題材に「蝶々夫人」を選んだのです。
≪日本についても勉強していた≫
同年にプッチーニはミラノに戻ると、『トスカ』の台本の執筆を手がけたイルリカとジャコーザに頼んで、最初から3人の協力で蝶々さんのオペラの制作が開始されました。翌年には難航していた作曲権の問題も片付き、本格的に制作に着手しはじめます。プッチーニは日本音楽の楽譜を調べたり、レコードを聞いたり、日本の風俗習慣や宗教的儀式に関する資料を集め、日本の雰囲気をもつ異色作の完成を目指して熱心に制作に励んだのです。当時の日本大使夫人の大山久子に再三会って日本の事情を聞き、民謡など日本の音楽を集めもしました。1902年にはプッチーニはパリ万国博覧会で渡欧していた川上貞奴に会ったとも云われています。
≪自動車事故を乗り越えた≫
1903年2月にプッチーニは自動車事故に遭って大腿部を骨折し、一時は身動きも出来ない重傷を負っています。春になると車椅子生活での作曲を余儀なくされました。しかしプッチーニは制作を精力的に進め、その年の12月27日についに脱稿しました。その年の内に楽譜は小説「蝶々夫人」も初版と同じセンチュリー出版社からヤーネル・アボットの挿絵入りの単行本として出版されました。原作者ロングはこの小説の戯曲化とオペラ化を大いに喜んで序文に「あの子が美しくかつ哀しい歌を歌って帰ってくる」と記しています。また翌1904年1月3日にはプッチーニはトッレ・デル・ラーゴで夫人エルヴィラと正式に結婚の儀式を行っています。
遠い東洋のファンタジー 蝶々夫人
蝶々夫人ははやい話、アメリカ人将校と没落武士の少女(15歳)との結婚から始まる悲劇です。この将校は、結婚し、子供もできたのですが、本国に戻るようにという命令で戻ってしまいます。ただ、また来るから待っててねという罪な言葉を残します。周りから騙されているに違いないというそしりを受けながら、それを信じてひたすら待つ蝶々夫人。ところが、アメリカ人将校はちゃっかりアメリカで結婚してしまうというありがちなストーリーです。戦後すぐの日本にも似たようなことがあったような気がします。その後、このアメリカ人将校は、アメリカ人妻を引き連れて、約束通りもう一度日本に来ます。きっと、子供がいるから必ず帰ってきてくれると信じていた蝶々夫人は、一瞬のぬか喜びのあとで、絶望に打ちひしがれ、自刃するのでした。という感じですが、現実はちょっと違っていたようです。
当時の長崎では、洋妾(ラシャメン)として、日本に駐在する外国人の軍人や商人と婚姻し、現地妻となった女性が多く存在していました。事実、19世紀初めに出島に駐在したドイツ人医師のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトにも、日本人妻がいました。
下級の軍人が揚屋などの売春宿などに通って欲望を発散する一方、金銭的に余裕がある高級将校などは居宅に女性と暮らしていました。この際の婚姻届は、鎖国から開国にいたる混乱期の日本で、長崎居留の外国人と日本人女性との同居による問題発生を管理したい長崎奉行が公認しており、飽くまでも一時的なものだったのです。
相手の女性も農家から長崎の外国人居留地に出稼ぎに来ていた娘であり、生活のために洋妾になったのです。互いに割り切った関係であり、この物語のように外国人男性との関係が真実の恋愛であった例は稀です。現に、シーボルトの日本人妻だった楠本滝は、シーボルトの帰国後に婚姻・離婚を繰り返しています。まして、夫に裏切られて自殺をした女性の記録は皆無であり、蝶々夫人に特別なモデルはいない創作上の人物であると考える説も有力です。
蝶々夫人のこの歌詞の内容を見ると、丘の上で待っているというところなど、映画の『慕情』のラストシーンが思い浮かびます。もちろん、こちらをモチーフにしたものです。
時は朝鮮戦争のさなか、香港が舞台の世界的大ヒット作です。Matt Monro – Love is a many splendored thing (慕情 / マット・モンロー)の歌声は印象的で、ロシアより愛を込めての世界的にヒットでも知られています。