曲の由来
《4手のためのワルツ集(または16のワルツ)》作品39は、ヨハネス・ブラームスによるピアノのための連弾曲集です。今回取り上げたのは、その15曲目です。
1865年に出版され、畏友エドゥアルト・ハンスリックに献呈されました。作曲者自身の見込みに反して、ビーダーマイヤー時代における家庭音楽への需要の高さから、売上げは非常に好調で、ほかに独奏版も発表されました。また、作曲者自身の編曲による2台ピアノ版(第1、2、11、14、15番のみ)も発表されていまする。
ショパンのような高雅な洗練には欠けるものの、総じて小ぶりで親しみ易い。楽曲ごとに様々な性格の違いが見られ、ウィンナワルツよりもレントラーに近いもの、リズムに凝ったもの、スラヴ風の愁いを含んだもの、ハンガリー風のにぎやかな曲想をもつもの、子守唄風のもの、夜想曲風のものとさまざまです。
しかし、簡潔で素朴なうちにも、緊密で明晰な形式感や、音楽的な趣味といったブラームス作品の特徴が凝縮されており、ちょうどショパンの場合の《前奏曲集》作品28と似たような特質を帯びている。
ブラームスが32歳の1865年、このワルツ集 作品番号39が書かれます。すでにウィーンに住んでから2年となっていましたが、極貧の環境で幼少期を送った延長線上で暮らしていました。20歳の時にシューマンに見初められ、音楽雑誌に絶賛され、ピアノ協奏曲、室内楽曲などの名曲を弱冠ながら世に送っていましたが、まだ下積みから抜け出していませんでした。つまり、音楽家の間にその名声を知られるきっかけになった、ドイツレクイエムや、一般の人たちに、大人気になった、ハンガリー舞曲が世に出される前だったのです。
そんな才気あふれながらも不遇なブラームスを何かと好意的に批評してくれた、ハンスリックに感謝の意味を込めてこの曲が献呈されています。
ハンスリックは、ブラームスがワルツを書いたことに驚いたそうです。ブラームスの堅物の人物像からです。その当時、ウィーンはシュトラウスのワルツ全盛の時期で、ブラームスは自分とは違う音楽を書くシュトラウスを心から尊敬し交友を深めていたのです。
しかし当時ワルツは非常に娯楽的な音楽とみなされており、ブラームスの気質ではちょっと自分には「ああいう風には」書けないと考え、ワルツの前身のドイツの民族舞踊音楽であるレントラー風になら、もっと重みもあるし、かつ素朴でブラームスにも書けると考えたようです。
したがって、このワルツは、貴族や上流階級が上品に踊るワルツよりも、一般庶民(農民や町民)が、お祭りかなにかで、もっとゆっくりしたペースで、素朴に踊るレントラーであると考えると、この曲らしさが出てくると思います。