【アルトサックス用無料楽譜】J.F.ワーグナー『双頭の鷲の下に』( Under the Double Eagle_Josef Franz Wagner)

クラシック曲集
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≪この曲ができたころ(1902年)のオーストリアの状況≫

1848年革命はヨーロッパ中に波及し、ウィーンでも暴動が起こるなど混乱の中、フェルディナント1世の後を甥の若き皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が継ぎます。しかし、すでに帝国は衰退傾向にありました。

1853年、不凍港獲得を目指すロシア帝国は、オスマン帝国との間に戦端を開く(クリミア戦争)。これに対し、バルカン半島におけるロシアの影響力増大を恐れたオーストリアは、オスマン帝国を支持しました。このため、ウィーン体制の成立以来友好を保っていたロシアとの関係が悪化します。これは神聖同盟の完全な崩壊を意味し、ロシアの後押しを失ったオーストリアは、ドイツ連邦内における地位を低下させました。

1859年にはイタリア統一をもくろむサルデーニャ王国との戦争に敗北し、ロンバルディアを失いました。1866年にもプロイセン王国の挑発に乗って普墺戦争を起こし、大敗を喫しました。その結果オーストリアを盟主とするドイツ連邦が消滅してその面目を失うなど、徐々に国際的地位を低下させていきます。

(二重帝国の成立)

この帝国の衰退に希望を抱く人々がいました。帝国内の諸民族である。先にあげたようにオーストリア帝国は、数多くの民族を抱える多民族国家でした。しかし支配階級はドイツ人であり、彼らだけが特権的地位を有していました。以前からドイツ人以外の民族の自治獲得・権利獲得の運動はありましたが、帝国軍に鎮圧されていました。

しかし、衰退傾向にあるこの時期、諸民族は活発に動き出した。そもそも民族運動が活発なのは、支配階級であるドイツ人が国内における人口の過半数を占めていないことも原因にあげられます。ドイツ人は帝国内の総人口の24%にすぎず、諸民族が力を持てばどうにも抑えようがなかったのです。帝国は改革を余儀なくされたが、改革路線として2つの道がありました。

.ドイツ人支配をあきらめ、諸民族との平等な関係にもとづく連邦国家とする。

.帝国内人口20パーセントを有するマジャル人(ハンガリー人)と友好を結び、ドイツ人とマジャル人で帝国を維持する。

しかし、特権的地位を手放したくないドイツ人達の抵抗、諸民族による支配で帝国の様相の劇的変化を恐れる、皇帝をはじめとする支配者の存在などの要因があいまって、後者の方針が採られました。その結果1867年、帝国を「帝国議会において代表される諸王国および諸邦」(ツィスライニエン)と「神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦」(トランスライタニエン)に二分しました。このドイツ人とマジャル人との間の妥協を「アウスグライヒ」といいます。君主である「オーストリア皇帝」兼「ハンガリー国王」と軍事・外交および財政のみを共有し、その他はオーストリアとハンガリーの2つの政府が独自の政治を行うという形態の連合国家が成立しました。これが「オーストリア=ハンガリー帝国」です。

(自治獲得の動き)

しかし、(いわゆる)オーストリアとハンガリーに分割しても、オーストリアではドイツ人35.6%、ハンガリーではマジャル人48.1%という具合に、ドイツ人とマジャル人はそれぞれの国内で過半数を占めていませんでした。そこでハンガリー政府はクロアチア人と妥協して協力を得ることで過半数に達しました(ナゴドバ法)。そのような中でハンガリーは国内の「マジャル化」を推し進めたのでした。

一方オーストリアでは、新憲法で「民族平等」を謳いますが、ドイツ人の反発とハンガリー政府からの要請があり、ポーランド人と協力して憲法を廃案に追い込み、ポーランド人と妥協することで支配的地位を保とうとしました。

その後も民族の自治獲得の動きは鎮静化せず、むしろいっそう激化し始めました。まずは工業地帯を握るボヘミア人(チェコ人)の発言力が増し、資本家・経営者および金融業者のほか、医者・弁護士やジャーナリストなどの専門職従事者も多いユダヤ人もまた発言力を増しました。

従来の地位を保持しようとするドイツ人と、新たな権利を得ようとする他民族との対立が目立ち始めることとなったのです。ハンガリー地域でも、マジャル化という同化政策に反して諸民族の自治・権利を獲得しようとする動きが高揚してきていました。

しかしこの時点では、どの民族も「帝国からの独立」を望んではいなかったのです。それは、プロイセン主導の統一ドイツならびにロシア帝国という2つの大国に挟まれた地域で、小国が分立していては生き残れないことを自覚していたためです。各地域の住民が「独立」するのではなく、あくまでオーストリア=ハンガリー帝国という大きい枠のなかで「自治」を得る、つまり諸民族の連邦国家を望んでいたのです。

そんな20世紀を迎える状況があって、その後、第1次大戦の引き金を引くようなことが、起こるわけです。根底には、ロシアの拡張主義、不凍港確保の動きというのがあった、その脅威をのぞこうとする動きがあったということです。

作曲者のワグナーはワグナーといっても、リヒャルトとヨーゼフといるということで、どちらも、いかめしくて、混同しそうですが、別人だということです。こちらの曲は、ヨーゼフの方で、作曲当時オーストリア・ハンガリー帝国の軍楽隊長であったようです。19世紀末に作曲したという説と、20世紀に入ってからという説があります。

演奏例

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