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【無料楽譜】シュトラウスII世ワルツ「ウィーンの森の物語」(Tales from the Vienna Woods StraussII op-314)

 この曲が作られたのは、シュトラウス2世が43歳の時でした。かねてから、聴かせるワルツを作りたいという意欲から創作された曲です。

 この曲の構成は他の楽曲と比べて複雑であり、踊るためのワルツというよりは演奏会のためのワルツでとなっています。実際にシュトラウス2世は、ロシアのパヴロフスク駅での仕事を受け持つようになった頃から、聴くためのワルツに関心を寄せるようになっていたのでした。

 そして、1868年6月の初頭にわずか一週間で書き上げたものといわれる作品です。1868年6月19日、ウィーンの舞踏場『新世界(ドイツ語版)』において初演されました。発表されるとたちまち大好評を博し、時のオーストリア=ハンガリー皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、このワルツを次のように評したといいます。

『これで奴隷や囚人も一つのあこがれの歌を持つようになった。』

このワルツは題名の通り、ウィーンっ子の憩いの場であった美しい緑地帯「ウィーンの森」を描写した作品です。しかし、当のシュトラウス2世は自然が大の苦手で、自然の中に出かけていくことに対して尋常ならざる恐怖を抱いていたといいますが、そんな彼がこのワルツを作曲しようと思い至った理由は明らかではありません。

 ところで、このシュトラウス2世というからには、1世がいるということで、それは、結構な頑固おやじだったということになっています。まずは、2世がどんな幼少期を迎えていたのかをざっとご説明します。

 1825年10月25日、ウィーンの数キロ南に位置するザンクト・ウルリッヒ(ドイツ語版)地区の、ロフラノ通り76番地で誕生しています。シュトラウス家は遠くユダヤ系ハンガリー人の血を引いていることは間違いないと思われますが、このことがヨハン2世の生前に何らかの形で言及された記録は残っていません。後年、彼はハンガリーに題材をとった作品を多く残していますが、そのことと自らの家系を結び付けた発言も特にみられません。

 また、数世代も前の改宗まで遡って身元調査的にユダヤ人呼ばわりする差別が行われ始めたのはナチスからですが、ヒトラーが大のシュトラウスファンであったため、やはりシュトラウス家の遠祖に関して問題にされることはなかったようです。

 なお、シュトラウスという姓自体がユダヤ固有というのは誤りであり、南ドイツ地方ではごくありふれた名前です。父は音楽家ヨハン・シュトラウス1世、母は居酒屋の娘マリア・アンナ・シュトレイムです。婚前妊娠であり、母がヨハンを身ごもったと発覚したことが両親の結婚のきっかけとなりました。

 ヨハンとその弟たちは幼い頃、母アンナから次のような話を言い聞かされて育ったといいます。アンナの祖父はスペイン王国のさる大公だったが、刃傷沙汰を起こしたためウィーンに逃れてきた、と。それは明らかな作り話ですが、シュトラウス家は蔑視されていたユダヤ人の子孫であったため、アンナは子供たちに劣等感を持たずに成長してほしいと願い、母方にはスペインの高貴な血が流れているのだという作り話をしたのだろう、と推測する専門家もいるようです。

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 ヨハンは生前、自分の少年時代について何も語ろうとしなかったとのこと。親友がその話題に触れたとき、当惑した表情で「それは、つらい思い出だ。」と呟いたといいます。

 父ヨハンは厳格な人間でした。父ヨハンは自身の率いる「シュトラウス楽団」において、賃金、練習時間、演奏活動など、あらゆることを思いどおりにしており、逆らう者は即刻首にしていました。父のその厳しさは家庭でも変わらず、自分に逆らえばたとえ妻子であろうとも容赦なく暴力をふるっていました。その多忙さから父は、自宅には寝に帰るか、仕事を片付けに立ち寄るだけであったといいます。

 1844年、ヨハン2世は修行を終え、デビューコンサートに向けて準備を開始します。一方、父ヨハンはライバルだったヨーゼフ・ランナーが1843年に世を去った後、ウィーンのダンス音楽の覇権を掌握していました。

 ところが、そんな状況において、自身と同名の息子が挑戦してきたことに父は強い危機感を覚えたのでした。息子のデビューを妨害すべく、父はウィーン中の名だたる飲食店に圧力をかけ、配下の楽団員には息子に味方することを禁じ、さらには新聞記者を買収して息子の中傷記事を書かせようとすらしました。

 これらの父の動きに対し、ヨハンも負けじと対抗しました。まだ父の息のかかっていない新しい飲食店に徹底的にアピールし、そして埋もれた有能な若手を中心とした音楽家の発掘に努め、さらに提灯記事を書いてくれる新聞社とも契約を結んだりします。

 当時の法律により、音楽家になるには20歳以上でなければならなかったのですが、当時ヨハンはまだ18歳でした。そこでヨハンは役所に行き、「父親が家庭を顧みないために生活が苦しく、私ひとりで母や弟の面倒を見なければならないのです」と涙ながらに訴えたのです。

 有名人の息子の願い出に対し、ついには頑固な役人も首を縦に振ったのでした。おまけに、家族を助ける青年音楽家という美談がウィーンに広まり、ヨハン2世の印象を良いものにしてくれたのです。(というか、おやじの評判がよろしくなかったのではないかと思うのですが、・・・)

 デビューコンサートは10月15日、シェーンブルン宮殿近くのカジノ・ドームマイヤー(ドイツ語版)に決まっていました。発掘してきた音楽家で独自の楽団を作ったヨハンは、定刻の午後6時に登場し、父と同じスタイルの「ヴァイオリンを演奏しながら華麗に指揮をする」というやり方で、指揮者としてデビューしました。この日のために、デビューを意識した題名の新曲が作られ、演奏されました。

楽譜は長くなりますが、別々に上げていたものを1つにしました。

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