ローベルト・アレクサンダー・シューマン(Robert Alexander Schumann, 1810年6月8日 – 1856年7月29日)は、ドイツ・ロマン派を代表する作曲家です。
ベートーヴェンやシューベルトの音楽のロマン的後継者として位置づけられ、交響曲から合唱曲まで幅広い分野で作品を残しました。 とくにピアノ曲と歌曲において評価が高いです。
ツヴィッカウの裕福な家庭に生まれ、ライプツィヒ大学の法科に進むも、ピアニストをめざしてフリードリヒ・ヴィーク(1785年 – 1873年)に師事します。しかし、指の故障によりピアニストを断念、作曲家となります。ヴィークの娘でピアニストのクララ(1819年 – 1896年)との恋愛と結婚はシューマンの創作活動に多大な影響を及ぼしました。文学への造詣も深く、1834年に「新音楽時報」の創刊に携わり、以後10年間にわたって音楽評論活動を行います。
このころから精神障害の症状に悩まされるようになります。1844年にライプツィヒからドレスデンへ、1850年にデュッセルドルフへと移住して指揮者としても活動します。この間、子供向けのピアノ曲を作曲するなど教育分野での貢献も残しました。
1853年にヨハネス・ブラームス(1833年 – 1897年)と出会い、「新しい道」と題する論文で若き天才として紹介するが、翌1854年にライン川に投身自殺を図ります。救助されたシューマンはボン近郊のエンデニヒの療養所に収容され、2年後の1856年に46歳で死去ししました。
楽譜は途中の表現が難しくて、ちょっと躊躇していたのですが、とりあえず、いいかという感じで上げます。最後は尻切れトンボになってしまいましたが、それなりの雰囲気は出たと思います。
ロベルト・シューマンのこのピアノ協奏曲イ短調作品54は、1845年に完成された、シューマンの遺した唯一の完成されたピアノ協奏曲です。
シューマンはこの曲の前にいくつかピアノ協奏曲の作曲に取り掛かっていました。1828年に変ホ長調の協奏曲の作曲を始め、1829年から1831年にかけてはヘ長調の協奏曲に取り組み、1839年にはニ短調の協奏曲を1楽章のみ完成させました。しかし、これらの曲はいずれも完成しませんでした。
1841年、シューマンは後にピアノ協奏曲の第1楽章となる『ピアノと管弦楽のための幻想曲』を作曲しました(初稿)。1845年にそれを改作し、間奏曲とフィナーレの2楽章を加えて曲として完成させています。この曲はシューマンの作曲した唯一のピアノ協奏曲となっています。
曲は3楽章からなり、第2楽章と第3楽章の間は休みなしに演奏されます。
1.Allegro affettuoso
2.間奏曲 (Intermezzo): Andantino grazioso
3.フィナーレ (Finale): Allegro vivace
1846年1月1日、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスで、ロベルトの妻クララ・シューマンの独奏、献呈者フェルディナント・ヒラー指揮で初演されました。
グリーグにも影響を与えた楽曲で、そういえば出だしがよく似ている感じがします。また、ウルトラセブンの最終回に使われた曲です。世代ではないので、そうなんだとしか言えませんが…。
シューマンというと、音楽室に飾られた肖像画から見ると、穏やかな優しい人に見えていましたが、どうも見立て違いだったようです。他の音楽家が不機嫌そうなおじさんばかりで、音楽室に部分的に影を作っているように見えました。そんな中にあって、優しいおじさんという感じだったのですが、結構激情型のようです。結婚相手と駆け落ちし、その後その父と法廷闘争してみたり、自殺未遂してみたり、最後は精神を患い46歳という若さで逝ってしまう。
そして、この曲は愛妻クララにささげた曲ということで、有名のようです。前にも書きましたが、当時は有名人となるも、洗いざらい個人の生きざままですべて後世に語られるということはやっぱりつらいでしょう。シューマンはその作風とは違い、究極のゴシップ芸術家になっちゃったということです。時代の雰囲気が多分そうさせたのだろうと思います。