マンボとは
マンボというと、足先に行くにしたがってタイトになったマンボズボンというのがありました。マンボキャンディーというのもあったような記憶がありますが、…とにかく『マンボ』というのがはやった時期がありました。そもそも、マンボとは、キューバ、ハイチの土着宗教ブードゥー教の女司祭の名前だったようで、それが1930年代に曲の題目になり、その後、キューバで流行していたルンバにジャズの要素を加えて、マンボとなるというわけですが…、?マンボというと『ウ・・・・、アー』とかいう掛け声しか浮かびません。
作曲者の略歴と曲の全世界的なヒット
どうも甲子園の高校野球のどこかの応援の曲としての記憶が強く、どちらかというとトランペットやトロンボーンのイメージが強いですが、日本で1962年にヒットしたのは、ペレス・プラード楽団のサックスのソロがはじめです。
ダマソ・ペレス・プラード(Dámaso Pérez Prado, 1916年12月11日 – 1989年9月14日)はキューバのバンドリーダー、指揮者、ピアニスト。マンボ王(マンボキング)とも呼ばれています。
1916年(1922年説もある)にキューバのマタンサス (Matanzas) に生まれました。父親は新聞記者で母親は教師。幼少時からクラシックピアノを学び、後にポピュラーに転向して地元のクラブ等でピアノやオルガンを演奏していました。
1940年代キューバの首都ハバナで働いていた頃、当時流行していたルンバにジャズの要素を取り入れた新しいリズム「マンボ」を積極的に演奏し始める(「マンボの王様」という異名から、ペレス・プラードにより作られたと誤解する者も多いですが、彼がマンボの発明者ではありません)。しかしこの新しいリズムはキューバ国内では受け入れられず、1948年にメキシコシティへ移住。そこでペレス・プラード楽団を結成、一躍人気アーティストとなりました。
その後、代表曲となる「マンボNo.5 (Mambo No. 5)」や「マンボNo.8 (Mambo No. 8)」を発表するとマンボは世界的なムーブメントとなり、アメリカに進出します。その後1955年に発表した「チェリー・ピンク・チャチャ(セレソローサ)(Cerezo Rosa (Cherry Pink and Apple Blossom White))」は、映画「海底の黄金」のテーマ曲になったこともあり、全米ヒットチャートで10週連続第1位を記録しました。しかも、26週連続それにチャートインしたばかりか、同年の全米年間ヒットチャート第1位を記録するといった快挙を成し遂げたのです。
更に、1958年には、彼の自作曲「パトリシア(Patricia)」が全米ヒットチャート第1位になっただけでなく、同シングルは400万枚を売り上げ、彼が発表した中で最も売れたシングル盤となっています。
彼のスタイルは指揮をしながらステージ上で所狭しと踊り、飛び跳ね、激しく動き回りながら独特の掛け声で楽団を煽るというもので、マンボの強烈なリズムと共にそのステージは当時の若者を熱狂させました。これは『スマイリー・オハラ』さんの指揮の仕方は、当時の流行を取り入れたのかもしれません。
キリスト教でもない日本では、違う題名が必要だった
この曲が発表されたのが、1946年ということです。そして、マンボの王様”の異名をもつペレス・プラードによって1962年に日本でもヒットししました。また、マカレナの乙女というのは、聖母マリアのセビリアでの異称です。マカレナはスペインのセビリア市の一部を指しています。では、『闘牛士のマンボ』とは、何でしょうか。
そもそも、マカレナの乙女は「Bernardino Bautista Monterde/ベルナルディーノ・バウティスタ・モンテルデ」が1946年に楽譜出版した楽曲です。当初の邦題「マカレナの乙女」でしたが、1962年日本では1週遅れてチャートインした「ペレス・プラード楽団」盤が代表ヒットとなり、邦題も「闘牛士のマンボ」でより知られるマンボ・ダンスを代表するスタンダードとされて、受け入れられたということです。
そして、この曲は、相当古い話ですが、ヤクルトの若松選手の打席に入るときの曲だったりしました。
この曲が日本で流れていたとき
この曲は、1962年に日本でもヒットしたのだそうで、ほぼ記憶にないながら、耳に強烈に残っているのは、その後もラジオなどから流れたり、甲子園の高校野球の応援で使われたりしていたせいでしょうか。ちなみに、1962年のヒット曲は、村田英雄の『王将』、植木等『ハイ、それまでよ』、橋幸夫・吉永小百合『いつでも夢を』、西田佐知子『アカシヤの雨が降るとき』、ジェリー藤尾『遠くへ行きたい』で、洋楽では、『太陽は一人ぼっち』・『愛さずにはいられない』でした。
ちなみに、『太陽は一人ぼっち』は、銭湯のポスターで知っていました。当時は、銭湯も情報発信をいろいろしていたように思います。街に来た映画のポスターは必ず貼ってあり、こんな映画をやっているのだということを知る手段となっていました。また、銭湯の人類みな兄弟効果は絶大であり、金儲けしているから偉いとか、優秀だから、何十億も金をもらうとか、そういう感覚を根本から否定するような風習だったように思います。ちょっと脱線しますが、・・・・。
楽譜は、あんまり難しくなると一部の人しか楽しめないので、少し簡単にしています。物足りない方は、結構youtubeなんかでもありますのでそちらをどうぞ。足がかりとしてどうでしょうか。