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【無料楽譜】マルティーニ『愛の喜びは』(Martini Piacer d’amor)

 愛の喜びはたった1日、愛の苦しみは一生ということを歌った歌であるそうで、なんとなく怖い歌です。その感じがピアノの前奏の部分に滲み出ている感じがします。1961年のエルビスプレスリーのヒット曲、Can’t Help Falling In Love 邦題『好きにならずにはいられない』は歌詞の内容も言っていることはほぼ同じです。ただ、クラシックのほうがちょっと残酷で、怖い感じがします。

詞の内容

原語はフランス語ですが、イタリア語の歌詞で歌われる場合が多いです。甘いメロディとは裏腹に、愛の喜びはたった1日、愛の苦しみは一生という苦い歌となっています。
愛の喜びは一瞬しか続かない
別れの悲しみは生涯続く
私はつれないシルヴィのためにすべてを捨てた
彼女は私を捨て他の男のもとに去った
愛の喜びは一瞬しか続かない
別れの悲しみは生涯続く
この水が静かに
牧場を巡る小川へと注ぐ限り
私はあなたを愛しますと、シルヴィは何度も私に言った
水はまだ流れているが、彼女は変わった
愛の喜びは一瞬しか続かない
別れの悲しみは生涯続く

曲の由来

『愛の喜びは』(あいのよろこびは、仏語:Plaisir d’Amour, 伊語:Piacer d’amor)は、ジャン・ポール・マルティーニが作曲した歌曲。作詞はジャン・ピエール・クラリス。

原語はフランス語ですが、イタリア語の歌詞で歌われる場合が多いです。甘いメロディとは裏腹に、愛の喜びはたった1日、愛の苦しみは一生という苦い歌となっています。

後にベルリオーズが小編成のオーケストラのための管弦楽曲として編曲した他、ラリエは「マルティーニ『愛の喜びは』による幻想曲」を作曲しています。

アメリカのロックンロールミュージシャン・エルヴィス・プレスリーのシングル「好きにならずにいられない」’Can’t Help Falling In Love’の原曲でもあります。

作曲者の略歴

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作曲者のジャン・ポール・エジード・マルティニ(Jean Paul Egide Martini, 1741年8月31日 – 1816年2月14日 パリ)は、ドイツのフライシュタット出身のフランスの作曲家。本名はヨハン・パウル・エギディウス・シュヴァルツェンドルフ(Johann Paul Ägidius Schwartzendorf)。姓については「マルティン (Martin) 」とする説もあります。

6歳の時に両親と死別。父親アンドレアス・マルティン(Andreas Martin)とバルバラ夫人は、それぞれ学校教師とオルガニストでした。さしあたってイエズス会の神学校に通いながら、早くも11歳でオルガニストとして働いていました。その後は哲学の勉強のためにフライブルク・イム・ブライスガウに行くものの、むしろ音楽に親しみを感ずるようになり、やがて怠業気味となります。1760年にロレーヌのナンシーに行き、イタリア語で「マルティーニ・イル・テデスコ」(Martini il Tedesco、ドイツ人マルティーニ)と名乗るようになります。1764年にマルグリット・カムロ(Marguerite Camelot)と結婚。マルグリット夫人もオルガニストの家系の出でした。

パリに移住してから、とりわけ歌劇と行進曲の作曲家として、最大の成功が舞い込んできました。1788年に宮廷楽長(Surintendant de la musique du roi)として宗教曲にかかわる宮廷音楽家に、またパリで最も重要な劇場の監督に任命されます。

しかし不運にも、フランス革命の勃発によって地位を失い、不安なまま至急リヨンに避難します。1796年にパリ音楽院に採用されますが、パリで作曲家として成功できず、1802年に再び解雇されます。

その後は再び教会音楽に献身しました。すでに七十代の峠を越えていたが、1814年のブルボン家の王政復古まで生き延び、再び宮廷楽長に任命されました。最後に《ルイ16世のためのレクイエム》を作曲しますが、この作品はマルティニ自身の死の3週間前に初演されました。セーヌ=サン=ドニ県にて逝去。ペール・ラシェーズ墓地に埋葬されています。

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演奏例

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