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【無料楽譜】マーラー交響曲第5番『アダージェット』(Mahler_Adagietto from Symphony No. 5)

 一時期ブームともなった曲

交響曲第5番(こうきょうきょくだい5ばん)嬰ハ短調は、グスタフ・マーラーが1902年に完成した5番目の交響曲。5楽章からなります。マーラーの作曲活動の中期を代表する作品に位置づけられるとともに、作曲された時期は、ウィーン時代の「絶頂期」とも見られる期間に当たっています。

1970年代後半から起こったマーラー・ブーム以降、彼の交響曲のなかで人気が高い作品となっています。その理由としては、大編成の管弦楽が充実した書法で効果的に扱われ、非常に聴き映えがすること、音楽の進行が「暗→明」というベートーヴェン以来の伝統的図式によっており曲想もメロディアスで、マーラーの音楽としては比較的明快で親しみやすいことが挙げられます。

とりわけ、ハープと弦楽器による第4楽章アダージェットは、ルキノ・ヴィスコンティ監督による1971年の映画『ベニスに死す』(トーマス・マン原作)で使われ、ブームの火付け役を果たしただけでなく、マーラーの音楽の代名詞的存在ともなっています。

この曲を作曲したグスタフ・マーラーという人は、どんな人か。こんなに綺麗な曲を作る人はどんな人なのかと思い調べると、1860年から1911年までの生涯で、20世紀初頭を知った人だったわけです。ユダヤ人であり、オーストリアに生まれました。14人の兄弟が誕生したが、半数が幼少期に死んで、その精神的心理的な影響はあったものと思われます。音楽については、父親がその才能を5歳ぐらいで見出し、音楽の道へと進むそうです。

しかし、私はその興味ではなくて、この当時のユダヤ人のおかれた環境というか、その後のフォロコーストとなるようなものが、いったいどういうものだったのかということです。

そもそも、ユダヤ人とは、ということもあります。現代では、どういう定義か、知りませんが、ユダヤ教を信じる者は、ユダヤ人ということが言われ、そう扱われる時期もあり、しかし、ユダヤ人という人種はいないということも言われ、よくわからないことだらけです。現代もそうですが、当時は著名な科学者・芸術家の多くがユダヤ人だというのも、なぜなのだろうと興味がそそられる一因でもあります。

作曲者の略歴

グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860年7月7日 – 1911年5月18日)は、主にオーストリアのウィーンで活躍した作曲家・指揮者です。交響曲と歌曲の大家として知られています。

1860年 7月7日、父ベルンハルト・マーラー(Bernhard Mahler, 1827年 – 1889年)と母マリー・ヘルマン(Marie Hermann, 1837年 – 1889年)の間の第2子として、オーストリア帝国ボヘミア・イーグラウ(Iglau、現チェコのイフラヴァ Jihlava)近郊のカリシュト村(Kalischt、現チェコのカリシュチェ Kaliště)に生まれました。

夫妻の間には14人の子供が産まれています。しかし半数の7名は幼少時に様々な病気で死亡し、第一子(長男)のイージドールも早世しており、グスタフ・マーラーはいわば長男として育てられました。そのなか心臓水腫に長期間苦しんだ弟エルンストは、少年期のグスタフにとって悲しい体験となっていました。グスタフは盲目のエルンストを愛し、彼が死ぬまで数ヶ月間ベッドから離れずに世話をしたといいます。

父ベルンハルトは強く精力的な人物でした。当初は荷馬車での運搬業(行商)を仕事にしており、馬車に乗りながらあらゆる本を読んでいたため、「御者台の学者」というあだ名で呼ばれていました。独力で酒類製造業を開始し、ベルンハルトの蒸留所を家族は冗談で「工場」と呼んでいました。

ユダヤ人に転居の自由が許されてから一家はイーグラウに移住し、そこでも同じ商売を始めます。当時のイーグラウにはキリスト教ドイツ人も多く住んでおり、民族的な対立は少なかったのです。事業を成功させたベルンハルトは「ユダヤ人会」の役員を務めるとともに、イーグラウ・ユダヤ人の「プチ・ブルジョワ」としてドイツ人と広く交流を持っていました。

グスタフをはじめとする子供たちへも同様に教育を施し、幼いグスタフはドイツ語を話し、地元キリスト教教会の少年合唱団員としてキリスト教の合唱音楽を歌っていました。息子グスタフの音楽的才能をいち早く信じ、より完全な音楽教育を受けられるよう尽力したのもベルンハルトである。彼は非常に強い出世欲を持ち、子供たちにもその夢を託したのでした。

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母マリーもユダヤ人で、石鹸製造業者の娘でした。ベルンハルトとは20歳の時に結婚しています。家柄はよかったのですが、心臓が悪く生まれつき片足が不自由であり、自分の望む結婚はできなかったということです。アルマ・マーラーは「あきらめの心境でベルンハルトと愛のない結婚をし、結婚生活は初日から不幸であったと書き記しています。その結婚自体は理想的な形で実現したとは言えないものの、夫妻の間には前述の通り多くの子が生まれています。ただし身体の不自由なマリーは、教育熱心な夫ベルンハルトと違い母親としての理想的な教育を子供たちに施すことができませんでした。グスタフは生涯この母親に対し「固定観念と言えるほど強い愛情」を持ち続けていました。

ベルンハルトの母(グスタフの祖母)は、行商を生業とする剛毅な人間でした。18歳の頃から大きな籠を背に売り歩いていました。晩年には、行商を規制したある法律に触れる事件を起こし、重刑を言い渡されたが、刑に服する気は毛頭なく、ただちにウィーンへ赴き皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に直訴しています。皇帝は彼女の体力と80歳という高齢に感動し、特赦しました。グスタフ・マーラーの一徹な性格はこの祖母譲りだとアルマは語っています。これが、グスタフを取り巻く幼少期のエピソードです。

個人的には、記憶に残っているのは、昔の『ベニスに死す』という映画のテーマとしてこの曲を聞いたことです。映画の内容がなんのことかさっぱりわからなかった当時の私は、海岸で死に瀕した主人公とそこに流れる曲の印象だけが残っていて、数十年間すっかり忘れていました。そして、トランペットをもう一度やってみようと思い立って、そういえば、あの曲を吹きたいと思ったうちの一つがこの曲です。もともと交響曲なので、ソロの演奏はなかなかありませんが、バイオリンとチェロの演奏から、これはかんばれば管楽器でもできそうと思い楽譜にしてみました。



マーラーのひととなり

この作曲者のマーラーは出自に関して後年「私は三重の意味で故郷がない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として」と語っています。マーラーは指揮者として高い地位を築いたにもかかわらず、作曲家としてはウィーンで評価されず、その(完成された)交響曲は10曲中7曲(第1番を現存版で考えると8曲)が、オーストリア人にとっては既に外国となっていたドイツで初演されています。マーラーにとって「アウトサイダー(部外者)」としての意識は生涯消えなかったとされ、最晩年には、ニューヨークでドイツ人ジャーナリストに「なに人か」問われ、そのジャーナリストの期待する答えである「ドイツ人」とは全く別に「私はボヘミアンです(Ich bin ein Böhme.)」と答えています。

酒造業者の息子として育ったマーラーは、「シュパーテンブロイ」という銘柄の黒ビールが好物でしたが、本人はあまり酒に強くはありませんでした。

アマチュアリズムを大いに好んだとされ、チャールズ・アイヴズの交響曲第3番を褒めちぎったのは、「彼もアマチュアだから」という理由が主なものだったと言われています。

マーラーは自身と同じユダヤ系の音楽家であるブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラーらにも大きな影響を与えています。特にワルターはマーラーに心酔し、音楽面だけでなく友人としてもマーラーを積極的に補佐しました。クレンペラーはマーラーの推薦により指揮者としてのキャリアを開始でき、そのことについて後年までマーラーに感謝していました。そのほか、ウィレム・メンゲルベルクやオスカー・フリートといった当時の一流指揮者もマーラーと交流し、強い影響を受けています。なかでもメンゲルベルクはマーラーから「私の作品を安心して任せられるほど信用できる人間は他にいない」との言葉を得るほどに高く評価されていました。メンゲルベルクはマーラーの死後、遺された作品の紹介に努めており、1920年の5月には6日から21日にかけてマーラーの管弦楽作品の全曲を演奏しています。

一方、マーラーにはその一徹な性格から、周囲の反発をかうことも多かったといいます。楽団員からはマーラーの高圧的な態度(リハーサルで我慢できなくなったときに床を足で踏み鳴らす、音程の悪い団員やアインザッツが揃わない時に当人に向かって指揮棒を突き出す、など)が嫌われていました。

当時の反ユダヤ主義の隆盛とともにマーラーに対する態度は日々硬化しており、ある日、ヴァイオリン奏者の一人が「マーラーがなぜあんなに怒っているのか全く理解できない。ハンス・リヒターもひどいものだがね」と言ったところ、別の者が「そうだね。だけどリヒターは同じ仲間だ。マーラーには仕返ししてやるぜ」と言ったということです。当時のウィーンの音楽ジャーナリズムからも反ユダヤ主義に基づく不当な攻撃を受けており、これらはマーラーがヨーロッパを脱出した大きな要因です。

なおマーラーの「敵を作りやすい性格」については、クレンペラーがブダペスト放送での談話(1948年11月2日)にて以下の通り擁護しています。“マーラーは大変に活動的な、明るい天性を持っていました。自分の責務を果たさない人間に対してのみ、激怒せざるを得ませんでした。マーラーは暴君ではなく、むしろ非常に親切でした。若く貧しい芸術家やウィーン宮廷歌劇場への様々な寄付がそれを証明しています”と。

加えてクレンペラーは1951年にも「朗らかでエネルギッシュであったマーラーは、無名の人間には極めて寛大であり助けを惜しまなかったが、思い上がった人間には冷淡だった」「マーラーは真っ暗闇でも、その存在で周囲を明るく照らした」と述べ、マーラーの死後に広まった一面的マーラー観(死の恐れに取り憑かれ、世界の苦を一身に背負い…など)を否定しています。

マーラーの死後、評論家たちはマーラーのヨーロッパ脱出を「文化の悲劇」と呼んでいました。しばしば引き合いに出される「やがて私の時代が来る」というマーラーの言葉は、1902年2月のアルマ宛書簡で、リヒャルト・シュトラウスのことに触れた際に登場しています。以下がその一文です。

“彼の時代は終わり、私の時代が来るのです。それまで私が君のそばで生きていられたらよいが!だが君は、私の光よ!君はきっと生きてその日にめぐりあえるでしょう!”

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