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【無料楽譜】河村光陽作曲『仲良し小道 』

楽譜のご紹介

作詞者の三苫 やすし(みとま やすし、1910年(明治43年)- 1949年(昭和24年))は、福岡県出身の童謡作詩家。代表作は「仲よし小道」。

 三苫やすしは教職の傍ら詩作を続け、童謡雑誌に投稿した。1939年(昭和14年)1月、雑誌『ズブヌレ雀』に投稿した「仲よし小道」が河村光陽の目に留まり、河村は早速曲を付け、キングレコードに持ち込んでいます。

作曲者の河村 光陽(かわむら こうよう、本名:河村直則、1897年8月23日 – 1946年12月24日)は、昭和期の戦前から戦中にかけて活躍した作曲家です。長女は歌手の河村順子。

 1897年(明治30年)福岡県田川郡上野村(現・福智町)の裕福な地主の家に生まれます。小倉師範学校を卒業後、地元の小学校で音楽教師をしていましたが、ロシア音楽、特に国民楽派に傾倒していた彼は、1920年モスクワでの音楽研究を夢見て朝鮮に渡りました。

 しかし、当時のロシアは革命後の混乱期で、ゆっくり音楽の研究ができる状態ではなかったため、朝鮮にとどまり、師範学校や公立学校の音楽教師をして時を待ったのです。

 1924年27歳で帰国。東京音楽学校選科(現・東京芸術大学大学院)で、音楽理論などを学びました。1926年頃から自作曲の発表やピアノ伴奏者としての活動を始めます。1929年から竹早小学校で音楽教師を務める傍らで、数多くの楽曲を発表。1931年に佐藤義美の難解な童謡詩「ほろほろ鳥」に曲をつけ、また1934年に佐藤作詞の「グッドバイ」を発表して世に認められます。

 1935年4月にポリドール・レコードの専属作曲家となり、1936年にキングレコードの専属作曲家となったのを機に河村光陽と改名。音楽教師を辞めて作曲に専念するようになります。この年に発表した山野三郎作詞の「うれしいひなまつり」が大ヒット、翌1937年に武内俊子作詞の「かもめの水兵さん」と続きます。武内俊子との「赤い帽子白い帽子」「りんごのひとりごと」「雨傘唐傘」「船頭さん」など後世に残るものを含め、千曲を越える童謡を発表。大半の楽曲は長女の順子歌唱によるレコードで発表されました。

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 この曲の『ランドセルしょって元気よく・・』というフレーズが好きです。昔の通学路は泥んこ道で、角から野良犬(放し飼いのバカ犬も)が出てくるという恐怖心と闘いながら、はらはらしながら通っていたという感じでした。当時の犬は番犬ですから、吠えるし、うえていてお行儀も悪い上に本能のままに行動するほぼ狼でした。

 この曲は、河村自身も福岡県出身で、小倉師範学校を卒業後、一時地元の小学校で音楽教師をしていたのに加え、歌詞の中にある“とんとん板橋”が郷里田川郡上野村(現福智町)の福智川にかかる粗末な板橋の上で遊んだ幼き日々を思い出させたこともあったと想像できます。実際、戦前の福岡には小川にかかった粗末な板橋が随所にあり、子どもたちがその上でトントンと走ったりして遊んでいました。

 音符の配置が昔の軍歌によくあるパターンで、浦島太郎の曲とも共通するもので、かなり古いイメージがあります。たぶんなかには、タンカタンカと吹く人もいると思います。しかし、正確にはターカターカです。タンカ、タンカ、と吹いて、大昔、よく注意されました。

 童謡を馬鹿にしてはいけません。吹けないならば、あるいは突っかかるのであれば、どこかが違うのだと思います。

 それはいいとして、今はこの曲を聴くこともなくなりました。もっと商業ベース的に、ランドセルを売ってやろうという感じで、ランドセル売り場には必ず、『友達何人できるかなあ…』という強迫的な曲が流れています。昔は探さなくても、うじゃうじゃいたので、ちょっと変わった子でも同類は必ずいたんじゃないか。

また、もともとこの曲も、レコードヒットとなった曲で、商業ベースでスタートした曲だったということですので、普通の唱歌などとはちょっと違う感じがしていましたが、当然かもしれません。

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