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【無料楽譜】童謡『青い目の人形』

楽譜のご紹介

 

≪青い目の人形の由来≫
 日露戦争後に日本が満州の権益をにぎると、中国進出をうかがっていたアメリカ合衆国とのあいだで政治的緊張が高まっていました。また、アメリカ本国においても、日系移民がアメリカへ大量に移住することにより、経済不況の下にありながら1日1ドルの低賃金でも真摯に働く日本人によって、アメリカ人の労働力を損ねる恐れがあったためや、予てから根付いていた人種的偏見等も相俟って、1924年にジョンソン=リード法(通称「排日移民法」)が成立した事もまた、日本国内での反米感情を煽ることになり、両国民の対立を深める一因になったのです。

 そんななか、1927年(昭和2年)3月、日米の対立を懸念し、その緊張を文化的にやわらげようと、アメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック博士(1860年 – 1945年)が「国際親善、人と人との理解は大人になってからでは遅いと子供の世代からの国際交流を重視すべく「世界の平和は子供から」をスローガンとして掲げ、人形を通じての日本との親善活動がおこなわれました。

 近代の日本財界の重鎮である渋沢栄一(1840年 – 1931年)も日米関係の悪化を憂慮しながら、ギューリックの提唱に共感し、この事業の仲介を担い、実際、アメリカから12,739体の「青い目の人形」が贈られたのでした。お話としては、私の父母が生まれたあたりの話です。

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 生徒らによって名前(パスポート記載の名前または愛称)がつけられ、ガラスケースなどに入れられて学校の昇降口や校長室の前に飾られていたということです。アメリカ人形だけでは淋しいと日本人形と一緒に飾られた事例もありました。学芸会や運動会、遠足などの学校の行事に人形を参加させたケースもあるなど、それなりの待遇を受けていました。雛祭りでは雛人形と共に飾られたこともあり、戦後も一部の小学校や幼稚園でこの形式の雛祭りが催されています。

 しかし、第二次世界大戦に入り、日本の青い目の人形の大半は竹槍訓練の標的にされたり、焼却されたりなどして滅失し、あるいは空襲や災害で失われたり、戦後、校舎改築等の際に見つかっても、寄贈された経緯を知らずに古い人形として廃棄されたと思われるものも少なくないのだといいます。

 やがて、残っていた人形がテレビ等で紹介された事と共に、地方に残る青い目の人形の再発見や、人形親善の継続としてアメリカから(ギューリック3世らから)の学校等への新しい人形(新・青い目の人形)の寄贈が行われるようになりました。

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演奏例

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