【トランペット用ソロ楽譜】昭和歌謡シリーズ 『月光仮面』テーマ曲

トランペット用昭和歌謡曲楽譜
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楽譜のご紹介

月光仮面の放映は1958年から9年だそうです。この辺は見ているのですが、どくろ仮面が怖すぎて、ほとんど目をそらしていたために(当時のテレビがぼけていてなおさら恐怖心を駆り立てたため)、記憶にありません。また、昨今の子供と違い、異常に早寝をしていたので、眠くてしょうがないということもあったかもしれません。

親戚から譲り受けた白黒テレビで見ていたと思います。この年は、東京タワーができて、長嶋がデビューした年でした。まだ田舎では自動車は走っていませんでした。画面に映る東京郊外と思われる舗装された道を見て、東京はきれいな街なのだと思っていました。

その後、10年ぐらいたって、東京に来てみると、なんと町が汚く、地下鉄はたばこの吸い殻だらけでした。がっかりしたのを記憶しています(今きれいなのは、いろいろなことの積み重ねでできたきれいさです。昔は相当汚かった。)

そんなことはいいとして、いつものように、楽譜のさわりだけをご紹介します。

前奏部分ももちろん再現しています。

楽譜の音サンプル




楽譜のご紹介

販売サイトはこちらです。Piascoreという楽譜専門販売サイトになります。楽譜の見本はトランペット用ですが、アルトサックス、フルート、トロンボーンの楽譜もございます。

演奏例

曲の由来など

1958年から59年にかけて放送された子供向け娯楽番組です。そのテーマ曲がこちらです。作曲は三沢郷

月光仮面(げっこうかめん)は、KRテレビ(現・TBSテレビ)と宣弘社が制作し、『タケダアワー』第1作として1958年(昭和33年)2月24日から1959年(昭和34年)7月5日まで放送されたテレビ冒険活劇番組、またその覆面主人公ヒーローの名。川内康範原作。川内さんといえば、おふくろさん騒動がありました。まさかあの人が原作者とは思いませんでした。また、当時のスポンサーが武田薬品ということで、思い出すのが、酒井和歌子さんの便座の宣伝、ただし、この番組の時だかどうだか不明。

日本初のフィルム製作による国産連続テレビ映画であり、日本のヒーロー番組の元祖でもあります。時代劇と探偵活劇の要素を組み合わせた作風は、その後のヒーロー番組に多大な影響を与えています。

漫画化された後に実写映画化されている。その後、1972年にアニメテレビドラマ化、1981年に実写映画化、1999年にはキャラクターを転用したテレビギャグアニメ化もされました。

『月光仮面』前年の1957年(昭和32年)の11月からKRテレビ(KRT)は、宣弘社を番組代理店に、10分間の帯番組形式の「国産初のテレビ番組」として、コメディー時代劇『ぽんぽこ物語』(東京テレビ映画制作、宮崎博史原作・川内康範脚本)を放送していました。

しかしこの番組は人気を得られず視聴率が伸び悩み、時代劇ということで予算もかさみ、翌年2月での打ち切りが決まってしまい、武田薬品工業がスポンサーを降板しそうになったそうです。このため武田薬品と縁の深い広告代理店宣弘社としては番組枠を押さえ続けるため、その後釜としてのテレビ番組制作を急遽企画しなければならなくなったのです。

しかし、KRT側から提示された予算は10万円で、宣弘社社長の小林利雄は相場を知らずに引き受けたが、この当時のテレビ業界では「30分枠のテレビ番組で80万から100万円の制作費が必要」といわれており、小林は旧知である東映のマキノ光雄専務に相談しましたが、「とても無理」として相手にしてもらえなかったのでした。

そこで小林は、自社制作によってこの予算不足を補い、広告代理店としての面目を保つべく、この『月光仮面』の製作のためにテレビ・ラジオ広告制作会社であった「宣弘社プロダクション」にテレビ番組制作部門を設立したのです。

内容については「安く作れるものをお願いします」として、原作を再び川内康範に依頼します。小林は「スーパーマンみたいなヒーローにしよう!」といったといいます。

川内もまた、備蓄の少ない当時の日本が貴重なドルを費やしてアメリカのテレビドラマを輸入することは国益に反すると憂慮しており、これに応えて同年の暮れには映画製作者の西村俊一を小林に引き合わせ、新しい番組企画に取り組むこととしました。

翌年の年頭から企画に参加した西村は、「『鞍馬天狗』のような番組はどうか」と川内に提案、予算不足から時代劇は無理と判断し、これを現代劇とする方向が決まったのです。

そこで、川内はこの西村の案を基に、人々の危機に颯爽と現れる『おどる仮面』との番組原案を執筆しました。

この題名を物足りなく感じた西村は、「人々の苦難を救済する=菩薩」をイメージしたネーミングとして、「日光菩薩の名を借りた『日光仮面』」を考案、さらに進めて「月光菩薩の名を借りた『月光仮面』」へと発展し、これが決定案となったのです。

初期には『月光王者』などの案もあったが、語呂や言葉の意味などから『月光仮面』となったということです。

放送日は2月24日からと決定していたものの、年頭の段階では何も決定しておらず、西村は慌ただしくスタッフやキャストの人選を行わなくてはならなかったのです。

そこで西村は以前在籍した「綜芸プロダクション」で伊藤大輔に師事し、助監督や編集を務めてきた船床定男を26歳の若さで監督に抜擢。続いて東映東京撮影所の大部屋俳優だった大瀬康一を、オーディションによって抜擢した。大瀬の抜擢の最大の理由は、小林社長によると「声の張りの良さ」だったといいます 。

また「子供に好かれそうな顔であったから」ともしている。大部屋俳優を主演に添えたのは出演料を安く抑えるためでもありました。

撮影スタッフも予算不足を考慮し、西村の映画会社時代の人脈から、「テレビ映画」制作の意欲に燃える無名の若者たちが集められました。その他のスタッフも社内で持ち回りとなり、フィルム編集は西村が行ないました。

月光仮面や悪人の仮面・覆面姿は美術スタッフの小林晋によるもので、いつでも代役を起用できるようにとの苦肉の策でもあたのです。実際に、どくろ仮面を宣弘社の社員が演じたこともあるのでした。

こうしてスタッフ陣が整い、撮影に入ったのは放送3週間前を切った、1月31日のことだったのです。プロデューサーも監督も主演も、すべて初の経験者という陣容であり、また「宣弘社プロ」自体が初の番組制作でした。

極端な予算と人員不足、手作りの番組制作は、今日では考えられないような様々な逸話を残しています。

制作費については、KRTから2万円、武田薬品から3万円の援助を受け15万円とし、その後30分枠になった際に70万円に引き上げられるという具合です。

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