この良く出てくるハンガリーというところがどんなところで、なぜブラームスがしつこく扱うのかがちょっと不明です。いつか時間があったら、調べようと思うのですが、当時のヨーロッパ諸国の中でハンガリーがどんな状況だったのか?で、何を表現している曲なのか・・・。
ハンガリーの当時の状態
調べました。当時のハンガリーは、オスマン帝国の支配下から脱却したものの、すぐに1699年からオーストリアの支配を受けます。
19世紀前半、民族の独立をめざす運動が起こり、1848年独立宣言を行うが、弾圧されました。1867年、形式的に独立しオーストリア=ハンガリー帝国を構成することとなりました。ということでしたが、そのベースにあるのは、マジャール人とクロアチア人の対立での内紛とそれを利用したオーストリアの支配でした。
1800年代中葉に独立戦争を起こすも、他のヨーロッパ地域はもう国民国家の動きがあったのに対して、ハンガリーの後進性というのは明らかと思います。そんな後進国的な見方をしていたのではないかとおもわれます。
それと、ハンガリーにロマ人(ジプシー)が多くいて、音楽活動も盛んであったという事実があり、そのロマの音楽を一緒に仕事をしていたレメーニというヴァイオリニストから教わったブラームスが、感銘を受けて、編曲という形でまとめたのがこのシリーズ『ハンガリー舞曲集』ということになったということです。
その後、ブラームスはレメーニに盗作だと訴えられますが、編曲集ということで免れます。なんとなく、ブラームス、ずるい、と少し思います。結局、ハンガリーがどうこうというよりも、ロマの音楽に感銘したということです。
ロマの起源
ハンガリー舞曲のベースにはロマの音楽があります。ロマと今は言われますが、ジプシーのことです。なかなかわかりずらく、自分も漠然としていた知識を少しまとめてみます。
ロマの人種的分類については、現在でも定説が存在しないため、厳密にどの人種に分類できるかは、いまだに判明されていないのです。
歴史的経緯をたどると、ロマは西暦1000年頃に、インドのラージャスターン地方から放浪の旅に出て、北部アフリカ、ヨーロッパなどへとたどり着いたとされています。旅に出た理由は定かではなく、西方に理想郷を求めた、などの説があります。
彼らがヨーロッパにおいて史料上の存在として確認できるようになるのは15世紀に入ってからで、ユダヤ人と並んで少数民族として迫害や偏見を受けることとなるわけです。特にルーマニアでは奴隷としてかなり近年まで使用されていたようです。19世紀に入って、人道上の観点からそのような扱いをしないということが確認されるようになりました。
最新の遺伝子研究ではインド先住民のドラヴィダ人との類似性が示唆されてきています。あくまで、ヨーロッパの白人にとって、外見上はっきり違う点が肌が黒い、黒髪である、といった特徴があるそうです。いまだに識字率が極端に低く、それに見合った生活を余儀なくされているようです。